<永遠のカゼ>  僕の理知的な彼女続編

 単刀直入に言って、私は頭が悪い。ただ幸いなことに自覚がある愚者だということが、その短所を致命的なものにするわけではない。
 私は子どもの頃から自分が愚かであることを知っていた。
 一縷の理解が私にかすかな賢明さをもたらし、私は自分の頭の悪さとよく向き合い、それを補うためになるたけの努力をしてきた。そのおかげで無事に大学にも入れたし、院にも残れたものだし、今こうして好きな研究をして尊敬する恩師の下につくことができたのだと思う。
 しかしやはりどう努力で霞み打ち消そうとしても、天性のものというものは、人に歓喜と絶望を与えるものだ。その揺るがなさによって。
 私には一人のある特定の男性がいる。
 世間一般に言えば私と恋人という関係性のある仲井健一君だ。
 少しだけ女性めいた綺麗で柔和な顔立ちに、腰が低く丁寧で礼儀正しい気持ちの良さは昨今の若者からは失われたと思える日本人の美徳を持っていて、女生徒の人気も高いと風の噂で聞いたがそれも頷ける。
 なによりも健一君の持つその空気がいい。
 彼と一緒にいれば穏やかで優しい空気がふっと移り香のよう辺りに自然に流れ出して、どんな精神状態の時でも自分の心が何か大きく温かいもので包まれているような、深い安心感をもたらす。結局のところ彼に惹かれる者はみな少なからず、その空気でしか息ができないと思いつめた者達なのだろう、私を含めて。
 彼は私の恩師、馬鹿な私をめげず腹を立てずにゆっくりと導いてくれた鈴木先生の研究所のゼミ生で、実際にゼミ室によくいた。
 初対面の時の記憶はそうまで鮮烈ではない。
 ちょうど半年ほど前に、私はいつものように鈴木先生の元へと論文の採点を求めていき、ノックして入った部屋に見慣れぬ顔の数人の生徒がソファーに座っているのに気付いた。彼らは新しく鈴木先生のゼミに入った三年生で、三人いた男子生徒の中の一人が健一君だった。
 私はおや、と思って彼を見た。一瞬なんだか奇妙なものを見た気がしたからだ。
 けれどそれはほんの短い時間でしかなく、私は次の瞬間、奥から出てきた鈴木先生に視線を戻し、その後場所を変えて私の未熟な論文について熱心に鈴木先生と意見を交わし合う内にあっさりと、その記憶は私の中からかき消されてしまった。
 それでも顔は覚えたのだと思う。多分。それからふと気付くと私は特に用事もないのに鈴木先生のゼミ室に、足しげく通うようになっていた。用事がないのだから当たり前だが行ったとてそこで特にすることはない。
 奇怪な行動をとる私にたいしても、鈴木先生は何をしに来たのかなどの無粋なことを聞かない方で、聞かれぬのをいいことに私はゼミ室に身を置いて鈴木先生と他愛もないことを話しながら、話す合間の息継ぎに窓の傍のソファで他のゼミ生と談笑する彼をたまにちらりと見た。
 そして彼らがしている話を横聞きして少しだけ彼にたいしての情報、なんという名前なのか、どんな話し方をするのか、などを得ていった。ゼミ室に彼の姿がない時は、まったく薄情なことだが、先生に挨拶をするとすぐに帰ってしまった。
 どうやら二つ年下の彼に私という鈍く馬鹿な女が恋情を抱いてしまったのだと気付いたのは、鈴木先生が最近熱心に研究所に顔を出しますね、と言ってからだ。
 出していますか、と私が訪ねると鈴木先生はええ、と明瞭に答えてくださった。そうだったかと思い出して、研究室に入って私がすることを浮かべて、なるほどと思い、多くの利点を持つ相手はその代償のようにこんな女にも惚れられるはめになって大変だなと少し彼に同情した。こんな女に惚れられるのも同情されるのも彼としては真っ平だっただろうが。
 彼は誠実で真面目でどこまでも真っ当の、私とは別次元の存在だとなんの疑問も持たずに思っていたが、その彼がある日、繊細そうな頬を紅潮させてやたらしどろもどろでこともあろうに私の前に来て自分と付き合ってくれ=交際してくれ、と言い出した時には、こいつは大丈夫かと初めて思った。
 大きな疑問は湧き、彼の正気を疑い、様々な要素がからみあったこの問題に、すぐに結論はでなかった。そして彼は即答を待っていた。私の目の前に広がったこの巨大な疑問が、彼が待ちうる時間では到底解けないということだけはわかり、私は誠意にこたえるために頭を切り替えた。
 確かに謎ではある。しかし、物は考えよう。所詮、彼は彼で私は私である。彼側の事情は私には関しない。私は彼に恋情を抱いている。その私にたいして彼が付き合って欲しいと言う。すると私に特に断る必要性はない。以上の理由で、依然大きな謎は残ったものの、私達は付き合うことになった。
 付き合ってもやはり仲井健一君は仲井健一君だった。三日持てばいいかと思っていた私に、最初はどこかおどおどとしていた態度が気軽なものにかわり、敬語が抜けて呼び名が先輩から佳代さんに代わってからは徐々に、ゼミの研究室で他のゼミ生に見せるような笑顔を向けてくれた。このような結果にいたった原因はいまだによく分からないが、これは役得だと私は思った。
 私の惚れた相手は心が広いものだと、誇るところのない私の中で男を見る目だけは誇れるものだと少し悦に入ったが、やはりそのような日々でも以前として仲井健一君はなぜに私に付き合ってくれと言い出したのかが分からずに、転がり込んできた幸せな日々の中でも私は常に首をかしげていた。
 事情がわからない以上、迂闊なことをするわけにはいくまい。それで取り返しのつかないこともある。私はとりあえず慎重を期することにした。
 誰しも世間体というものがある。私はどうでもいいが、友人も多そうな彼としては世間体というものは大切だろうと、私は極力大学では彼に付きまとわないようにした。
 会いたくないわけではなかったが、やはり相手の世間体は大事だ。事実とは言え私との妙な噂がたっては彼の将来のためにもなるまい。
 自分からは決して捜すまいと決心し、大学で彼を見つけるとすれ違ってしまう距離でも、靴紐を結んだり突然に辺りの木立の色合いが目に付いたり小鳥の声が聞こえだしたような素振りで距離を調整して何気なさを装い彼と会った。
 これは社会的立場では、ゼミ生繋がりの知人であるので、挨拶くらいは良いだろうという、一種の甘えた判断だったのだが、当の仲井健一君は私を見つけると誰といてもいつでもわざわざ足を止めて、手をあげ笑って挨拶をしてくれた。つくづくできた男だ。
 しかしそんなできた男が、なんで私に付き合ってくれと言わなければいけないのか、日々が進めば進むほど謎は膨れ上がった。卒業論文よりも難しいこの不条理に、どの世界の謎よりもその不可解さが気になっていたある日、類は友を呼ぶというか仲井健一君の友人が親切にもその疑問にたいしてわざわざ私に明瞭な答えを教えてくれた。
 やはりできた人間にはできた友人ができるものだと私はいたく感じ入ったが、まずいことにそこで私の馬鹿さ加減が引っかかってしまった。
 彼の言っていることが今ひとつ理解ができなかったのだ。「こくる」という重要な動詞の意味を解さぬために全ての事象が一つに終決しない。
 図書館で半日資料を漁ったが無残な失敗に終わり、縋るような思いで鈴木先生へと教えを請いに参上すると、尊敬する恩師に馬鹿でしかも努力の甲斐もなく薄学であると曝け出した、私への蔑みも憐憫もいっさい向けることなく鈴木先生は仏のような微笑で「それは告白するという意味ですよ、北沢さん」と教えてくれた。
 かかっていた全ての雲が晴れた私は、師に熱烈な感謝を浴びせて大満足で研究所を出て、それから事態に気付いた。
 つまりなぜ健一君が私に付き合ってと言い出したかと言うと、それは仲間内でのカードゲームによる大負けのための、いわゆる罰ゲームという制度によってのものらしい。
 私はこの結果を頭に浮かべた瞬間身震いした。

 なんと幸運な。

 長い人生で自分がことさら幸運に恵まれていると思ったことはないが、このときばかりはその全てはここに集まっているのだと思って眩暈を覚えた。私は一瞬、不条理だが神を信じた。なにしろ凄い確率だ。健一君がゲームに負けたこと、その罰ゲームの標的が私になったこと。
 確かに健一君からして見ればこの上のない罰ゲームだろうが、私としては買ってもいない宝くじにあたったような幸運だ。相手の不幸を喜ぶとは不謹慎だが、いくら大人しい健一君でもそのうちに言ってくるだろう。それまで幸せを甘受させてもらうことにしよう。ここであえて言い出さなかった行為の動機に、私のごく利己的な気持ちがあったことは認めよう。
 そこでふと健一君のこの上もなく親切な友人のことを思い出した。名も告げずに去っていった奥ゆかしい相手だったが、罰ゲームの提案は彼がしたのだと考えるのが妥当ではないか。
 ならば私の幸運は彼によってもたらされたのだとも仮定できる。ここは一つ健一君に名前を聞いて菓子折りのひとつでももってお礼に参上するのが筋というものではないか。
 ぶつぶつと考えながら大学の校舎の間の通りを歩いていると、十字路の並木道越しに健一君が歩いているのが見えた。このままでは彼は直進し私も直進するので、彼の方が早く通り抜けてすれ違ってしまう。
 私は俄然競歩の選手のように足を速めて、そして少し早めすぎたので十字路にさしかかる最後のところでスピードを緩めた。細かい調節の甲斐があって
「佳代さん」
 健一君が私に気付いて声をかけて寄ってきた。世間体を気にしなければいけないのだが、今の私は浮かれていてついつい彼に答えて私の方からも歩を詰めてしまった。
 すると彼はびっくりしたようだ。いけないいけないと思いつつもへらと彼に笑いかけてしまう。するとやはり不気味だったのだろうが、健一君の肩がぴくんと揺れてそこから頬が真っ赤になった。
 しまった、風邪をひいていたのか。体調が悪い時に不気味なものを見せられて熱があがったのかもしれない。なにしろ私のような図太い神経とはかけ離れた繊細な相手だ。
「風邪か? 大丈夫か?」
 額に手をあてがうとやはり熱かった。か、佳代さんと健一君が蚊のなくような声で何事か訴えるよう言ったので、心配で周りが見えていなかった私はその言葉にハッとして出来うる限りの素早さで白衣の下にその手を隠した。
 何事もなかったのだと周りに無言で訴えると、少し足を止めていた生徒達は親切にも足を動かしてくれた。うむ。世間の人情はまだ失われてはいまい。私も急いで立ち去らねばならぬと
「養生したまえ」
 そう言って去っていった。後に健一君に聞いたところ、彼はこの時あの妙な誤解を生んだアルバイト尽くしを決心したというのだが、懇切丁寧に説明されても馬鹿な私には何故だがさっぱり分からなかった。


 日にかざした私の左手の薬指で銀の眼差しが光っている。武骨というには少し違うかもしれないが、骨ばって研究で荒れてもいる私の無粋な手の指に、銀のリングが収まっているのは自分で見てもどうも不似合いな光景だ。
「やっとはめてくれた」
 隣ではあと健一君がため息を吐き出した。婚約と言ってもまだ確定ではない、君の将来のためにもならないと思うし、実際のところ実験には邪魔になるからな、と告げるとすると健一君がとてもとても疑わしげな顔で
「佳代さん、」
 と呼んで私が振り向いたところで告げた。
「本当に僕のこと好き?」
 彼からどうしてそんな質問がでなければいけないのか。私はやはり到底分からない。
「なぜそう思う?」
「佳代さんは、どういう状況になっても必ず僕と別れる選択肢を考慮にいれているからだよ」
 不貞腐れたように健一君が言った。私は彼を見た。最近見せてくれるようになった顔だ。よくわからないのだが何故か彼は私に罪悪感を抱いており、私に合わせて背伸びをしていたのだと白状して、少し無邪気な様を顔に浮かばせるようになった健一君。
 あの時の彼のようだ。大学の校内にある街路樹の向こうから歩いてきて、真っ赤になったのでその額に咄嗟に手をあてた時、健一君は熱っぽかった。だから私は風邪だと誤解した。そのことが頭に浮かぶと自然と口から言葉が漏れ出た。
「君の風邪が永遠に治らないように、私は薄情だがいつも望んでいる」
 健一君の顔に疑問符が現れる。
「だが、やはり君の身体の方が大切だ。だから私は君に薬や粥を勧める。そういうことだ」
 答えを言い終わっても健一君の顔の疑問符は消えなかった。彼は真剣に考え込んでいたが、やがて思考を放棄したように背もたれにもたれて
「分からないよ」
「そうか」
「……別れたいとは、思ってないの?」
「思っていない」
 じゃあいい、と少しなげやりに健一君は言った。答えを言った直後にこんな質問がでるところやはり私の頭の悪さで不完全な説明となり、結局伝えきれなかったのだろう、と花壇を見ながら思う。
「僕はね、佳代さんの言ってることが分からない時が多いんだ」
「そうだろうな」
 私は彼にとって病原菌のようなものだ。だから私は健一君に薬や粥を勧める。いつ突然、その質の悪い風邪がけろりと治ってしまわないかと、最近では少し怯えながら、この上もなく不謹慎な心地で勧める。
 私がもう少し頭が良ければ、と思わないことはない。頭が良ければ彼に薬や粥を勧めるような事態には及ばない。けれど仕方ないのだろう。この理解力のなさはきっと生まれつきだ。生まれた時から諦めるべきなのだ。努力で補えなかったのだから。
 でもさ、と横で健一君が言った。
「僕は佳代さんのそういうところも好きだよ」
 なぜそういう結論が出るのか。やはり頭が悪くて私は健一君の言うことがさっぱり理解できない。視線を花壇から健一君に移した。私が生きるために必要な空気を漂わせて優しく笑う彼を見ながら
 頭が悪くても、まあいいかと、
 生まれて初めて私は思った。




 〈永遠の風邪〉完



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