副司祭長の私室は、私的な応接間も兼ねている。華美ではないが、上品に整った明るい部屋のソファに腰掛けるのは、黒い女と副司祭長その人だ。暖色の髪の副司祭長は、それまでテーブルに広げていた羊皮紙をまとめた。特別美しいわけではないが、知的な顔立ちだ。かけた眼鏡が余計にその印象を強める。カースリニ大神殿歴代最年少の副司祭長、グレイシア・ロズワースだ。
「ありがとうございます。これで医療の開放は目途が付きました」
「そちらの仕事に比べれば、何ほどもない」
 答えた黒い女の素性を求めて見やれば大半の人間が、魔導師と答えただろう。黒い髪に黒い瞳、特段若くもないようだが、年がわかりにくい顔立ちをしている。
「事務仕事は誰にでもできます。でも、知識を開放できたのはあなただけです。この知識が、世界にとってどんなにかけがえのないものか」女は手元の羊皮紙を敬虔な面持ちで見下ろした後、向かい合う黒い女に深々と頭を下げた。
「表に出ない貴女に、すべてにかわってお礼を言わせてください」
 下げられた頭を前に、黒い女はむ、と小さく顔をしかめ、早く顔をあげるようにと手を上に振る。もちろん、それは頭を深々と下げた副司祭長には見えないので、たっぷり時間をとってあげられた顔の前で、黒い女は横を向き
「本はすべて、より多くの人間の目に触れさせるために残した。一方的な恩恵ではない。目的が一致しただけだ。しまい込むための逃避行ではなかった」
「ご先祖さまは、焚書から、命をかけて守り抜き今に届けてくださった」
 押し頂くように目を伏せる。刻の流れの中には、決して表には出ない、けれどどれほど気高い意志で未来へ道を繋げた者たちがいるのだろうか。遥か彼方から届けられたそれと向かい合うとき、身体ごと揺れるほど心が揺さぶられる。
「ご先祖様はわかっていたのでしょうね。知識を、書物を焼き払うことが、何に繋がるか」
 本を焼く者は、いずれ人間を焼くようになる。忌まわしい予言を、自らで証明したものも人間たちだ。同じ人の中から、焼く者と繋ぐ者が同時に現れる。
「人は、神にも悪魔にもなれると実感します」
「ただの書痴で古書狂いの集団だ。本のこと以外、てんで頭になかっただけだろう」
 くすり、笑った後、急にグレイシアは顔を引き締めた。
「医療の次は、空間術かと思っています」
「妥当だ」
「医療と連動すれば、多くの生命を救うことと思います。物資を届けるのにも、活躍します。世界は大きく変わるでしょう」
 そこで言葉を切った。神妙な顔に、黒い女はうなずいた。
「暗殺も奇襲も、実に容易くなる。だが、カウンターの手段は確立している」
「ありがとうございます。――それでも、目をかいくぐり、悪用することに、人の知恵は果てがありません」
「医療の術ですら悪用はいくらでもできる」
「ええ。せめて、考えうる限りの対抗策を用意しましょう。有用であっても、あまりにリスクが高い術はまだ出すのは控えましょう」
 眼鏡の向こうの瞳が伏せられる。
「これが世に知られれば批難も出るでしょうね。本来ならすべての人類に与えられるべき情報を、コントロールするのかと。世界を変えかねない知識の選別を私たちで下してしまうと。本を炎にくべた人間たちと何が違うのだと。……確かに、傲慢でしょう」
 美しい午後を沈黙がさした。自分たちのしていることの、是非は誰にもわからない。いや、突き詰めれば詰めるほど、恐ろしい未来に直結する予感しか覚えない。黒髪の女魔導師は向かい合う相手を眺めた。かつて何度も自問した。是非の間を何度も揺れた。一人では出せなかった結論。
 グレイシア・ロズワースは瞳を開いた。
「でも、傲慢さを引っ提げていきましょう。この時代に、新たな竜を生まないように」
 闇は昏いから、それを思うだけで光などか弱いものに思える。けれど、光もまた。命を賭して焼かれる本を救い出した人々のように世界を照らし出す。
 美しい午後には、沈黙こそが一番に雄弁だった。
 ところで、とグレイシアが明るい声をあげた。
「もちろん、今後のことでお目にかかる必要もありますが、それ以外でも、定期的に会合を開きませんか? きちんと日時を定めて。たまには、仕事から離れたお話なども」
 その言葉に黒魔導師は少し眉を寄せた。不快感、とまではいかないが、気は進まなさそうだ。でも暖色の髪の巫女はちっともひるまずに
「何時でも会えるとたかをくくっていたら、ついには会わないまま終わるかもしれません。そんな悠長なことはしていられません。私たちは共に、限りある命なのですから」
 添えられた言葉は、確かに黒魔導師の虚をついたようだ。真面目に見つめ返した瞳がふっとほどけた。「そうだな」
「では、隔月で、特に事情がなければ、月の七番目に固定でお願いします」グレイシアは続けて手を打った。「そうそう、新作があるのです。貴女にぜひ賞味していただきたくて」
 傍らの緑の瓶をあけて、盆の上のグラスにとくとくと注がれたのは濃い葡萄色の液体だ。私が作った葡萄です――、気が進まなそうだった魔導師は、その言葉にやむなしとグラスに口をつけた。嚥下の後、寄せた眉がほどけた。
「お酒に手をつけられたことがなかったので、苦手にされているのかと。摘みたての葡萄を絞った汁にハチミツを入れて飲みやすくしました」
「何百年たっても、酒の味には慣れなかったな」
 光に透けるグラスの中の濃紫色を揺らして魔導師は呟いた。
「その点、ラファナーテはよく飲んだ。飲むときは樽を干していた」
 そもそも神殿を破門になったのも儀式に使う酒蔵を全部空けたことによるらしい。まあ、とグレイシアが微笑んだ。豪快な英雄と豪快な聖女の末の血が、穏健な形で結実してよかった、と思いながら。



「乾杯」
 代表して口火を切ったのは、赤銀の髪の男、アシュレイ・ストーンだ。所せましと集った人々をぐるりと見まわして――、と言いたいが、自分を除けば二人しかいないので無人のテーブルを二往復した後、こじんまりと三つのジョッキを打ち合わした。 
「カールの新しい宿のオープンを祝って」
「前夜祭ですがね」
「未成年娘たちを前にベロベロ酔うのも気が引けるだろ」のど越しのいいエールに口をつけながら見回す。「場所はいいな。相変わらず中身も。後は、部屋が埋まるかだけだな」
 最後にして最大の問題点を、解決する方法はない。いきなり不吉な予感につまずきかけた会だが
「じゃあ、端の一室、僕の部屋にしてくださいよ」
 ライナスの言葉に、カールとアシュレイが目を向けた。
「この年になると持ち歩けなくても所有しておきたいものも増えてきましたし、かといって長らく無人にする部屋に集めるというのも。カールなら風通しくらいしてくれるでしょう? 少しは家賃に色をつけますし」
「そりゃいいな。俺も頼もうか。レザーにも声をかけて、いっそ賃貸にしちまえよ」
 隻腕の大男は、おとなしく首を横に振る。
「レザーは、まだですか?」
「迎えに行くって言ってたからそのうち来るだろ」
「過保護ですよね」
「最近、虫がたかってきて色々な意味で面倒くさいらしいぞ」
 ジョッキの中身を一口押し込んで「父親なんだか、なんなんだか」独り言ちて苦笑した後、ライナスは壁に顔を向けた。
「ドラゴンの鱗、ここにも飾ったんですね。あの変態亡霊の剣も一緒に飾ったらどうです? いいシンボルになりますよ」
「あの剣はダメだ」
 横から首を振ったのはアシュレイだ。
「なにしろ、ガルディア騒動の根幹にあったもんだからな。徹底的に調べられた」
「何か出てきたんですか?」
「詳しく調べると、どうもあれは異界でいくつもの竜の血を吸ってきてたんだと。それに空間干渉の媒体としても作用したのなんだの」
「まったくわからないですが、相当いわくつきの剣なんですね」
「今は大人しいが、今後どうなるかはわからないとさ。世のため人のため新装開店の宿屋のために、持ち出し禁止だ」
「持ち出し以前にもう物騒だからそんなもの、師匠サマに頼んで折ってしまえばいいじゃないですか」
「それも無理らしい。穏便にこの世からご退場いただく方法は今のところないんだと」
「じゃあどうするんですか」
「レザーの故郷のあの野郎の礼拝堂に入れてるって」
「いかれたブツはいかれた人間に責任を持って処してもらいましょうってことですね」
 納得してうなずくライナスに、アシュレイの視線が突き刺さる。
「お前は、刃物を持たないからギリギリなんだからな」
「人聞きの悪い」
 さも心外そうに肩をすくめる相手に、アシュレイは鋭い目のまま
「さっき年を持ち出したようだが、そろそろ良い子ぶる年でもないと思うぜ」
「僕が良い子ぶらないと、困るんじゃないですか」
 鋭い目のまま、アシュレイは言った。
「まあ、困るな」
 でしょう? と笑う。
「良い子の僕に、ご褒美をくださいよ、一人部屋くださいよ、カール」
「良い子が自分からねだりにいくか」
 呆れたようにアシュレイがこづく。
「……やめたら、とりあげる……」
 ぼそり、と落ちたのは初めての声だ。隻腕の店主に視線が集まった。
「え、ああ、はい」
 びっくりしたライナスが答えると、端の一室だな、と静かな瞳でうなずいた。
「いいんですか、お願いします」
 悪い奴がちょっといいことをすると美化される奴だ、と愚痴りながら手をあげて「俺の部屋も頼むぞ」とアシュレイは付け足すのを忘れなかった。


 綺麗になった。
 純粋に。混じりけなしに。綺麗になったと、そう思う。
 待ち合わせという単語に、雲を踏むような心地で向かった。白く明るい日差しの中で、オープン席もまた白く輝いている。店内を抜けた先にある椅子に、彼女はもう来ていた。窓の外にその視線を向けて。
 カフェの入口で立ち止まってただそう思う。
 光にくし削られたような端正な姿形だ。だがそれだけではない。白い肌に白い髪、そこに映える赤い瞳。透明で精巧な線の細さ。雪の結晶舞う冬の平原に大粒のルビーを落としたかごとく、印象的な美しさを宿している。
 いつもの魔導師然とした格好ではなく、ゆったりした朱色の上着と一見スカートのようにも見えるベージュのカウチョをまとっているせいだろうか。大人びて見えるし、別人のようにも見える。そこで、彼女はこちらに気付き、微笑んだ。
「こんにちは」
 どきどきしながら歩み寄る。
「本日は、私主催の会にお集まりいただき、ありがとうございます」
「う、うん。会ね」
 頭がぽうっとしているので、あまり会話が入ってこない。はい、と彼女は答えた。
「私、メイス・ラビットが合法的にレザーさんを食い尽くす方法を検討する会です」
「お兄さん、大至急、大盛りサラダをドレッシング抜きでお願いします」
 リシュエント・ルー、通称リットは給仕を呼び止めて口早に言った



「え、結婚したい? レザーちゃんと?」
 餓えた獣に遠くへ向かって肉を放るがごとく目の前に置かれたサラダボールの中身をしゃくしゃく食していく少女を前に、ううーん、とストローを咥えながらリットは背伸びをするように唸った。
 寝耳に水、というわけではない。彼女の願望はそれなりの年月を経て悟ってきた。しかし、ここまではっきり口にされたのは初めてかもしれない。
「メイスちゃんの希望はわかるけど、なあ。ぼく、カールちゃんとはやっぱりそういう風には考えられないし」
「カールさんですか」
 テンポよく食べながら、メイスが呟く。
「カールさんも考慮に入れるべき御仁ですよね」
 え、とリットが揺れた。
「レザーさんが亡くなる等の不可抗力な場合は検討してもいいかと」
「だ、ダメー!」
 じゃあやめておきます、としゃくしゃく食べる。美味しくはなさそうですしね、と褒めてるのかけなしているのかわからない単語は全力で聞き逃したふりでリットは
「そ、それに、まあ」言いにくそうに「……グレイシアちゃんとの関係もあるからね」
「人間社会の制度に固執するつもりはありませんので、夫としては共有でも構いません。身体は譲りませんが」
「やばいレザーちゃんが号泣する未来しか見えない」
 喫茶店での美しい待ち姿に、感慨を覚えたが早かった、と自分の印象を撤回しながら
「そもそもさ、メイスちゃんはレザーちゃんにそういう、あれだ。ふぉーりんらぶ的な感情を抱いているの?」
「かなり単純ではありますが、うさぎにもそういう感情はないわけではありません。レザーさんは健康ですし、縄張りを維持できる力も他の雄を牽制できる力もありますし、食料を確保できる甲斐性もあります」
 今の返事は肯定なのか否定なのか、疑問符を浮かべるリットの前で話は続いていたらしい。
「それにカマキリのメスはオスを捕食する……雌雄って素敵な関係ですよね」
「メイスちゃんもう一度人間社会学ぼう! 一緒に学ぼう人間社会は男女!」
 ここ一番いい笑みを浮かべた相手に、それをかき消すようにリットは両手をふる。
「私だって無暗にレザーさんを食したいわけではありません。でも夫婦は一心同体、苦楽を共にすると言いますし、迫りくる危機を共に生き抜くなら、レザーさん以外に考えられません」
「危機って」
「無人島に漂着して食料が尽きたり、雪山で閉じ込められて食料が尽きたり、大飢饉がおきて食料が尽きたり」
「ピンチが一つしかない!」
「食べることは全ての根幹ですよ」
 メイスは微笑んだまま「つまりレザーさんはあらゆる意味での私の理想だということです」
「……メイスちゃんって、がつがつの肉食系だよねえ」
「私は菜食主義者です」
「うーん、食べる時点で草も肉もかわんないのかな」あまり自信がなさそうなリットの呟きの、次の言葉は確信に満ちた。「そして肉でも草でも食べられるレザーちゃんと」
「そう、ありとあらゆる意味で食う食われるの関係性でいたいと」
「いや意味は限定してた方がいい」
 カフェに入ったときは大人になったと思ったのになあ、とリットは頭をかきながら、冒頭飛び出した言葉を思い出す。
「あのさ、メイスちゃんのイメージする結婚ってのがそもそもよくわかんないから聞くけど、具体的に初めから最後までメイスちゃんはレザーちゃんとどうなりたいの」
「レザーさんには常に私のそばで滋養溢れた新鮮な食料を提供していただき、子どもの父親になった暁には私と子どもに変わらず食料を供給していただき、最期にその身体を食べさせていただければ」
「そこまで食い物にされる人生初めて聞いたよ……」
 リットはおそるおそると
「あのさ、メイスちゃん。ちょっとレザーちゃんを食べることにこだわり過ぎてない?」
 するとメイスは食べ終えたボウルを見つめながら
「確かに……。そうですね。私は長年レザーさんにこだわり過ぎて執着……を超えてこれが人で言う信仰というものではないのかとすら思えてくる思いを抱えていました、月日がたてばたつほど期待は高まり、それが思い込みに過ぎない。過剰な希望に過ぎなかった、ということも十分にありますし、保証はどこにもありません……」
「う、うん」
「実際に食べてみたらなんだこんなものかと思うかもしれません」
「悲惨すぎる!!」
 その場で飛び上がった。
「レザーちゃんの最悪なエンドってメイスちゃんに食べられてあー美味しかったかと思ったらまだ過酷な展開が奥にあった!」
 美味しかったって言ってあげて! 悲鳴に近いリットの嘆願に
「老年になればレタスさんもやはり張りを失い味が墜ちていくことも十分考えられます」
「名前は言い間違えにしておきたい」
「でも、いいんです。レザーさんならそれで……」
「いい話なの? いい話でいいの?」
 誰かに確かめるようにリットは周囲を見回した。



「で、リットはどこに行ったんですか? なんだか浮かれた様子でしたが」ライナスは口の端を面白そうに曲げ「もしかして、春ですか? 格好もいつもより気合が入っていたように見えました」
 カールが首を横に振った。
「お前が来る前に、メイスちゃんと待ち合わせ〜、って踊ってたぞ」
「予想通りでつまらない」
 カールの目が厳しくなる。
「お嬢さん二人の会合とは、むさくるしいこちらと比べると対照的ですね」
「今頃、大変だと思うがな」
 アシュレイの言葉に、視線が集まった。
「リットの奴、待ち合わせってことに浮かれて内容については全然考えてない感じだったからな」
「君はわかるんですか」
「わかるだろ。レザーとのことだよ」
 ああ…、ただでさえうら寂しい店内に漏れたのは、なんとも滅入った音だ。
「まあ、確かにメイスさん、綺麗になりましたよ。そろそろ娘さんな年頃ですし、そういう気があるなら考えてもおかしくないでしょう」
 問題はメイスが明確にその相手を唯一人、と定めていることだ。
「レザーはどうなんですか?」
「『絶対に、ない』」
 アシュレイはふ、と短い息を吐いた。「だな、本人の言い分としては」
「そうでしょうね」
 カールも静かにうなずいている。
「レザーもこの件に関しては頑固だからな。『娘同然に思ってきた相手とどうこうなるような、俺自身がそういう奴は受け付けないし、そういう奴がメイスとどうこうなるってのは絶対に許せん』で受け付けんよ」
「相手役が自分でそれを頑として認めない父親役も自分と忙しいことで。自分の尻尾に食らいつく蛇みたいですね」少し言葉を切ってからライナスは続けた。「でも、メイスさんの気持ちを無下に否定するのも気の毒では?」
「あんなものは刷り込みだ。鴨の親子と変わらない、とさ」
「うーん、あれは刷り込みですかね」
「それはわからん。なにしろ例が特殊すぎる。ま、レザーとしては、年の近い気のいい奴と幸せになって欲しいとさ」
 うんうん、うなずくカールの横で、べたな父親だなあ、と苦笑して
「普通のお嬢さんならそれがいいんでしょうが、彼女はあくが強いから。確かに僕らはみんな好きですが、その純朴な一見さんがあのエキセントリックさを受け入れてくれるかはまた別でしょう。ましてやそれが元々その気のない彼女が奇跡的に気に入った相手ともなれば、確率と確率が重なる確率はさて?」
「あいつも思いつめてたからなあ。『ともかくいい感じのを捕まえてきて、人参に変えれば、ワンチャンあるかもしれん…』って前に飲んだ時こぼしたし」
「僕が言うセリフでもないですけど、犯罪起こす前に止めた方がよくないですか」
「ほんとにお前が言うセリフじゃねえよ。止めるけど」
 ぐび、とまた男陣は一口エールを飲み下した。
「そういうしがらみ全部取り払ったところではどうなんでしょうかね」
「前提が無理だから無駄だろ」
「そもそも彼、年上好みでしょ」
 ライナスが頬杖をつく。
「基本的に、包容力のある年上が男女問わず好きですよね。生い立ち聞いて、ああこれ空想のファザコンとマザコンを拗らせた慣れ果てだって思いましたけど」
「お前いっぺん殴っていいか」
「三回殴らせてくれたら考えます」またエールをぐびりと喉の奥に流し「そう考えれば彼、メイスさんのこと刷り込みだなんだの言える立場じゃないと思いますが、まあ他人に投影するのとその人そのものの違いは大きいですか。そろそろレザーも30代突入で、多少の好みの変動はあるかもしれませんが……それでもメイスさんが好みのタイプとは思えませんね」
「好みとか好みじゃないとか、俗なもんじゃねえんだよ」
 アシュレイのやや語気が強い言葉に、カールが同意の首をふる。
「前に、真面目に説得したらしいんだよ。お師匠とあの野郎のことを持ち出して」
「ああ。メイスさん、気にしてましたものね。なぜ結婚しなかったのか理解できないって」
「俺はそれがわかるって。その関係で心から満足してたなら、わざわざ付け足す必要がないんだって」
「うーん。その説得、どうなったんですか?」
「あのような特殊な変態達と一緒にしないでくださいで一蹴されたらしいけど」
「師匠サマは可哀想ですよ、変態でひとくくりにされると。まあ、その説得じゃうまくいかないでしょうね。メイスさんは全部を狙ってるわけですし」
 ライナスは、手元のジョッキを一口嚥下して。
「どうしたものですかねえ」
「どうするものでもないだろ。お前はメイスに肩入れしているようだが、あれは初恋とか少女の片思いとかそんな可愛いもんじゃねえよ。狙い狙われ仕留めるか仕留め損ねるかだ。有史以来から、そういう食う食われるの関係性ってのは連綿と続いてきたんだ。ある意味、永遠の関係性だ。下っ端の俺たちがどうこういう問題じゃないだろ」
 そこでアシュレイは苦い息を吐きだした。
「だいたいだな、この年まで揃いも揃って独り身たちが、どの面下げて言えるんだよ、そんな話を」
 ぐうの音も出なくなった酒場では、無言でジョッキを煽る音だけが続いた。



「えーと、そのメイスちゃんの希望にたいして、レザーちゃんはなんて言ってるの?」
「なんとかコンプレックスとか選択肢のなさとか近視眼的だとか色々並べていますね。要約すると、私が周囲と比較しないのが嫌みたいです」
「比較」
「他者の可能性を考慮に入れてないって」
「あー……」
「だからちゃんと比べたんですよ。アシュレイさんとライナスさんとカールさんと」
「近視眼的!」
 それでカールちゃんの名前が出てきたわけか。顔を覆いながらつぶやく。
「狭い人間関係の中で選ぶのがそんなにダメなものですかね」
「まだ見ぬ幸せを願っているんだと思うけど」
「レザーさんらしい考え方ですよね。いつか王子様が、ですか? ここではないどこかで、おとぎ話みたいな夢が待っている。うさぎの世界での交配の可能性なんて住んでいる場所がすべてですよ」
「まあより良い存在を広く探せるってのは悪くはないんじゃない?」
「広い世界なんて、幻想ですよ。限られた生命を持つものは、限られた世界しか持てません。でも、それで十分じゃないですか。そんなに広い世界で生きていかなきゃいけないものですか? あんまり「どこかに」を求め続けていたら、結局何も手に入らずに死ぬかもしれない。手の中の世界は、そんなに価値がないものですか?」
 一理ある、とリットも思う。地に足をつけた物言いとも言えるだろう。もっとを望めばきりがない。大切なものがすでにそこにあるなら、きちんと手をつないでおくべきだ。
「うん、それはわかるし、そんなにほいほい素敵な人がいるかって言うとなかなかいないもんだし。――ただ、まあ、もうちょっと説得力が欲しいかもね」
「説得力」
「なんだかんだ言って、僕ら、まだ若輩者って言われる年齢だし、人間の寿命は長いし。もう一、二年、そこそこ世界に挑んでもうちょっと選択肢を増やした後なら、かわるかも。やっぱり、アシュレイちゃんカールちゃん……ライナス、は最初から入れなくていいと思うんだけど、引き合いに出せるのがそれだけだと否定には弱いんだと思うよ、正直偏ってるし」
「なるほど」
 ここ来て初めて少しだけ彼女を説得できたという気がしたが、どちらかというとメイスの言い分強化の方にふれている。その過程でレザーと彼女、どちらの言が強化されるかは神のみぞ――いや、おそらくレザー側は相当分が悪いだろう。
 でも、秘策はないわけではない。まだ見ぬ高みが現れてくれることを祈るより、レザーの味を落とせばいいのだ。レザーだって永遠ではない。食べられなくなる。縄張りも維持できなくなる。年も上だから、いつかは人の手を借りて生きていかなくてはならない事態も十分にありえる。それを揺さぶれば、メイスの動機は木っ端みじんだ
 ただ、自分としてはどちらの立場に寄るべきなのだろうか、とリットは思う。理屈としては、メイスの言い分はわからなくもない。でも、カールと自分を重ねれば、父娘に近い関係でどうのは絶対に避けたい、というレザーの思いもわからなくもない。
 それに、純愛ならともかく、メイスは実に即物的だ。そういうところも好きだけど。あくまでそれは友人だから言えることではある。条件付きの愛情は、条件が崩壊すれば悲惨しか残らない。どんな形に結実しても、悲惨な物別れにだけは終わって欲しくない。
 リットを決めた覚悟に腕を組んだ。
「メイスちゃんは、レザーちゃんがまずくなって、食べさせても貰えなくなって、縄張りも維持できないくらいむしろメイスちゃんが食べさせなきゃならないぐらいに弱ったら、どうするの」
「ずっと一緒にいますよ」
 組んでいた腕をといてリットは呟いた。「え?」
 見返して白い髪の少女は笑っている。
「ずっと一緒にいます」
「レザーちゃんがまずくなっても?」
「ええ」
「食べられなくなっても?」
「ええ」
「むしろメイスちゃんが食べさせる側になっても?」
「はい」
 見返して少女は笑っている。
「だから、レザーさんは、諦めるべきなんです」
 リットは腕を解いて言った。
「いい話でよかったんだ」


 喫茶店の扉が鳴った。誰かの足音が近づいてくる。
「メイス」
 春風のような声に、ぴょんと少女が立ち上がった。向かいの席のリットには光に照らされた彼女の顔がよく見えた。
 カフェに入ったときと、リシュエント・ルーは同じことを思った。







<新元号のガールズトーク>完



 
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