夜の十時から朝五時までの、深夜割高のローソンのバイトが終わったときには、心身ともにへとへとになっていた。けれど待ち合わせの約束は八時だったので、僕は泣く泣く二時間だけの睡眠を無理矢理破り、日差しすらきつい朝の町を通って待ち合わせの公園に来た。
 公園と言ってもたいして広くもなく植木も少ない。あるのはだらっとちょっと長めに続く散歩道ばかり、というとことん殺風景なところで、他の公園と違って遊具もないせいか、子どもの姿もあまりない。
 僕らの家のちょうど中間地点にあるこの公園が、待ち合わせ場所として最適であり互いに平等だと訴えると、彼女は至極納得して、納得しすぎてことあるごとに全ての待ち合わせの場所がここになった。
 おかげで、たとえば二人で出かけることになって、そこはどちらかの家とこの公園にたいして、正反対の場所にある。それでもここが、待ち合わせになる。融通が効かないというのか応用ができないというか。
 そんな公園の敷地には、繋いだ犬を連れた住民の姿だけがちらちら見えて、彼らの元気な足取りとは逆に、僕はよろよろと廃人のように日差しの中を歩く。
 入り口を真っ直ぐに進んでぐるりと廻った、この地味な公園で唯一見れるものである、大きな花時計の花壇の前のベンチがいつもの目印で、僕はそこになんとかたどり着いた。
 待ち合わせの相手はすでにそこに腰掛けていて、朝の光の中で書店のカバーをかけた文庫本を手のひらの中で広げ、眼鏡ごしにじっと視線を落としていた。
「佳代さん」
 呼びかけると、眼鏡越しにこちらに気づいてぱたんと本を閉じる。
「仲井健一君」
 どうして佳代さんは僕をいつまでもフルネームで呼ぶんだろう、と思いつつ開けられたベンチに座る。まあ僕だっていつまでも佳代さん佳代さんとさん付けがやめられないのでおあいこなのかもしれないけど。
「よく来てくれた。ざっと見たところ最近と同じように疲れているみたいだな。急に呼び出して悪い。だが、これが最後だと思って耐えてくれ」
「いや、いいけど……」
 言いかけてふと何かが引っかかった。……これが最後?
 ふらふらとあまりきちんと働かない頭をなんとか動かそうとする横で佳代さんは、こちらを正面から向き直り小さめのレンズの眼鏡の奥から、揺るぐことのない冷静な目を僕に向ける。理知的、ってのにも限度があるぜありゃ、と悪友の昴が前に言っていた言葉が頭を掠めた。
「単刀直入に言おう、仲井健一君。」
 佳代さんの目は冷たく動かない。理知的にも限度がある、か。
「私は君と別れることにした」
 初めて限度があると思った。


 僕の彼女だった人は佳代さんと言って、そのことがあまり知られてはいないが美人だ。
 フレーム無しの尖った眼鏡は、理性のみで造られたよう整然とした顔立ちによく似合い、外せば眼鏡をつけていた時より目元が柔らかい気もするけれど、少しだけつった切れ長の目は早い話が怖そうな、きつそうな美人と言った感じだ。欲目で見てもあまり可愛いという単語は似合わない。
 佳代さんはうちの大学の理工学部の院生であり、いつも何かと白衣をまとっているので助教授にもよく間違われる。僕のゼミの教授の教え子らしくゼミ室にちょくちょくと顔を出してくるので、顔見知りになった。そしてまあ色々とちょっと口軽くは言えない事情があって僕は告白して彼女と付き合うことになった。
 僕も初めから彼女が美人だと気付いたわけじゃないけれど、気付いてみるとどうして今まで気付かなかったのかしきりと考えた程、佳代さんは美人だ。
 佳代さんの先生でもあるゼミ教授のホトケ先生(本名は鈴木先生。名前のインパクトが少ないのと、いつもにこにこしているお祖父さん先生なのでこう呼ばれている――悪戯気がある者の間ならばホットケ先生になってしまうが)もある日、佳代さんが尋ねてきて用事をすませ颯爽とドアから去っていくと、にこにこと笑って振り向き、その時ゼミ室にいた僕をあわせたゼミ生に北沢君は綺麗だろう、と言っていたが、その時全くだと思ったのは僕一人だけだったようだ。
「あの北沢って女だろー? うちの講義で同じグループなんだけどすげえよ、あの鉄仮面。言葉遣いも変だしよ、なんか、もう次元が違うぜ」
 と学部は違うが寮の同級生の上城昴が、僕が彼女と付き合う前に言っていた言葉が大半の人が彼女にたいして思うことなんだろう。
 そんな相手に半ば怯えながら僕が付き合ってくれと言うと、彼女は結局最後まで動揺など全く見せずにいつもの無表情とも違うけれど、なにを考えているか分からない一種の超越者のような瞳で僕を見据えた。
 仲井健一君、と呼ばれたときにはフルネームを知っていたのかとびっくりしたものだ。
「本当に私でいいのか」
「は、はい」
 多分、その時出した言葉は悲しいほどへっぴり腰だっただろう。
「なら、いいが」
「へ?」
「いいと言ったが」
 そして付き合い始めて半年。僕はまあそのなんだろう、佳代さんを美人だと気付いてしまったわけだ。いや美人だからどうのというわけではなく、ともかく他人がどう言おうと僕にとっての美人なんだ。美人じゃたとえなくてもだから僕には美人なんだ。
 そんな折に振られた。
 女性のことで死んでしまいたいと思ったのは初めてだった。寮の同級生達にも悪友にもさすがに顔色を変えて心配されるほど僕は憔悴した。
 鏡の中の自分を見てすげえと思ったのは中学生の時のおたふく風邪にかかったとき以来だが、それでもあの頃は驚愕したが今は無感動にのろのろと鏡から去って行った。
 振られた後の毎日は基本的にふせっている。飯も食べない。眠りたくもない。じんじんと痛む胸を抱えて大学に出るのもぴたりとやめた。
 本当だったら、ぶしつけにいきなりになんの理由もなく、それだけ宣言して去っていった相手にたいして怒るなりなんなりをぶつけるのが筋なんだろうけど。ある理由により、僕は彼女に負い目があった。そりゃどんなに傷つけられてもどうしようもない、何も文句は言えない、というくらいの。振られた原因は分からない今でも、そのことで振られたわけではないと断言できるけれど。
 だってもし佳代さんがそれを知っていたら、きっとあんな冷静には僕を振れはしない。それほどのことを、僕はしたと自覚がある。
 ふいに部屋のドアがノックされて昴が顔を出した。
「健、今日の講義、お前の分、代返しておいたぞ」
 言って了解もとらずに入り込み、床にどっかりと座り込む。
「だけどさー、いい加減ちょっとくらい講義でないとお前やばいぞ。期末、近いのに」
 そう、と生気なく答えた僕に何故か昴はぎくりとしたように
「ま、まあ、体調が悪い時はしかたねえな。ほら、これ今日の分の講義のコピー。」
 と紙の束を渡して逃げるように去っていった。いつもは僕に平気で代返を押し付けて自分は女といちゃつきにいくような薄情で軽薄な奴だが、今はずいぶんと僕には優しい。
 そんな常時には目に付きにくい優しさに触れて僕はなんとか、なんとかしなきゃなあ、と思えるようになった。


 それでも意志で簡単に立ち直れるなら、人生に苦労などいらない。
 一日が何もしないままにじりじりと過ぎ去って、空の真上にあがっていた太陽が傾いた頃、気力を総動員してなんとか重い腰をあげ大学へと向かったが、彼女がいる校舎には立ち入れずに中庭辺りを熊のようにうろうろと廻っているうちに、頭の中が自己嫌悪と辛さで一杯になってしまっていた。
 どうしようもない気持ちの悪さにベンチに腰掛けて耐えていると、するとチャイムがなり三コマ目の講義が終わって溢れてくる人の中から、ふとひらりとベンチの僕に向けて一人が近付いてきた。
「あれ、健一じゃん。もう大丈夫なのか?」
 高校時代からの友人の厚木悟だった。悟は鞄にしまいきれないのかルーズリーフが挟まったバインダーを小脇に抱えて、肩から鞄をさげている。
 僕が曖昧にうっすらと笑うと大丈夫かといいつつも最初から疑わしげであった悟の顔に、やはりと書かれて
「無理すんなよ。お前、その、色々とあったって」
「いや……やっぱりきついから、もう帰ろうと思う」
「帰るってお前、寮だろ。こっから結構遠いじゃないか。」
 矛盾しているように見えて矛盾していない言葉だ。うちの大学は大学校舎からなぜか寮がやたらに遠いことで近隣に知られている。その代わりに他の大学より寮費が安いのでそうまで文句は言えないのだが。
 悟は僕の暗い顔を見かねたのか
「俺ん家来いよ。もう講義ないしさ」
 部屋へと連れていかれた先で、くよくよしているうちに暗くなって、昴に続いて悟にまで優しくしてもらうと、どうにも心が弱くなってしまいそれで僕は自然に事情を悟に話していた。
 お前本気だったのかと彼女を知る悟は驚き、振られたところではなんとも形容しがたい顔をして、それから僕の負い目を話すと気の毒そうになって口を噤んでしまった。
 悟としてはあまりそのことに深く関係していない友人として、そんなに理由もなく振るなんて思いやりもないひどい女じゃないか、そんな女と別れられて良かったんだとお決まりの慰めパターンにしたかったのだろうが、さすがに負い目の件で到底彼女をこきおろして僕を慰めるということはできなかったようだ。僕もそれで都合が良かった。どんな状況でも佳代さんを悪く言う言葉なんか聞きたくない。
 まあ飲めよ、と悟は冷蔵庫から安い缶ビールの六個一パックを取り出して僕の前に置いた。あまり好きではない酒に僕は手を伸ばした。
 しこたま飲んだ、といいたいけれど、何も口にしてない身体は二缶目の半ばで視線がぐるぐると回ってきた。廻った視界に佳代さんがいる。姿勢のいい立ち姿に白衣は似合う。歩く姿は颯爽としてもういっそかっこいい。僕に気付いて立ち止まって口を開く佳代さん。
 みっともなくてもいい。最近敏感なストーカーと他人に思われてもいいから、電話するなり直接会うなりして、もう一度やり直したい、と言いたい。あの冷徹な目で見つめられればきっと僕は情けないほど怯んでしまうだろうけれど、それでも怖くなかった。でも僕には言えない。そんなことが言えるわけがない。
 なんだ可哀想なくらい僕は惚れていたんじゃないかと、生温くなったビールを飲みながら思った人生最悪の日だとあれだけ憔悴した時点で気付けたはずなんだろうけど、馬鹿だから。
 ぐるぐる廻る意識の中で今度は佳代さんの声がした。呼びかけると振り向いて、眼鏡越しの上目遣いでなんだ、と聞いた。男言葉と言うわけでもないけれど、女言葉でもない。言葉尻に性が現れない喋り方をした。
 僕は最後はめそめそ泣いた。その時には何故だが隣の悟も相当に酒が入ってそうだー女なんてーといきなり泣き出す。僕が慰められているんじゃないのかよ、と荒みつつも同調してやると、ずっと片思いしていた相手に実は彼氏がいたらしいとかなんとかで荒れだした。
 最初から言ってくれよ!!気付くようにしとけよ!! と悟が隣にいた僕の耳がつんざくほどに叫んだ一拍後に、隣の壁がドカッと鳴りうるせえぞっと苛立った怒鳴り声が届いた。安アパートだからそうまで騒ぐと薄壁越しに隣に聞こえてしまうわけだ。そうして隣に気を使って、荒れる悟をなだめていると、こちらは涙がやんで馬鹿らしくなった。
 僕が慰められているんじゃないのかよ、ともう一度思ってちゃぶ台に突っ伏して眠ってしまった悟を見た。酔いつぶれて髪が崩れて、頬が赤く目が腫れている。するとなんだかかわいそうだな、と思った。
 悟は自分も辛かったから、辛そうな僕を可哀想に思ったんだろうか。平気そうな顔をして現れたけど、二、三缶酒が入ればこうしてる。ああいう風に平気に日常を続けられない僕は弱いのかと考えた。でも、二、三缶の酒で剥がれてしまうのも決して強いわけじゃないと思う。
 酔いつぶれて突っ伏す悟の横で一人、缶ビールを惰性的に飲みながら考えた。
 僕はどうしようもない。どれだけ傷つけられても仕方ない。大前提としてそれがある。でも、それを棚上げにすれば、僕も友人も多分、僕らは僕らなりに精一杯やったはずなのに。
 かわいそうだな、と思った。

 
 ふらふらと朝の光の中に出た。一瞬、バイトをサボったことに気付いたが、どうせもうやる意味がないからやめるんだと思い出してほっとしてからまた泣きたくなった。あれほど、必死になって金を稼いだことは後にも先にも初めてだったのに。なんともタイミングが悪い時期に言われたもんだから、惨めさも倍増だ。
 佳代さんとのことでもう前を通るだけで辛かった公園を、今はわざと選んで抜けて帰ろうとした。すると間合いの悪いことに、花時計の前のあのベンチで佳代さんが座って本を読んでいた。
 その姿を目にしたとき、追い詰められた時とよく似た、この胸が悪くなるようなどきどき感と共に僕が取るべき行動の選択肢が咄嗟に頭をよぎる。
 1、無視する。
 2、他人行儀に挨拶をする。
 3、気まずくなるのが分かっても蒸し返してもう一度、
 もう一度。
 酔いがまだふんだんに残った勢いもあったんだろう。それが浮かんだ瞬間、他の選択肢が全部吹き飛んで、それだけがうるさく頭の中で存在を示すように点滅した。あたって砕けろとは言うが、もうすでに砕けている以上は何度砕けようが構わないはずだ。
 僕がそう思った瞬間に、突然、ばちんと音がしそうなほどの勢いで佳代さんが本を閉じた。そんなわけないのにその時の余波が、僕の頬に吹きつけてきたような錯覚すらした。佳代さんは閉じた勢いと同時に立ち上がり、つかつかと僕のところに近寄ってきた。
「仲井健一君」
 あれ、と思って僕は心の中で一歩後ずさりした。いつもと同じように見えて、けれどどこかで苛立ちをこめたこの呼び方、そして僕を見つめる鋭い視線。それはなんだかとても
「仲井健一君、聞いているか」
 ……怒っている?
 僕が呆けて彼女の顔を見つめていると、冷たい視線がぐさぐさと来た。
「君のその有様はなんだ」
 彼女の怒りを受けて、その言葉を聞いた時、僕は不意にどれだけ惨めな精神状態の時でも酒の入った席でも、今まで決して浮かんでこなかった佳代さんへの反感を覚えた。確かに彼女が言う通り、自分が今どれだけ惨めな格好なのかは薄々と分かっていたけれど、それもあなたのせいじゃないか、と胸が怒って呟いた。
 僕がこうして佳代さんの姿を目にするのはもう何日ぶりだろう。相変わらずフレーム無しの眼鏡越し、まっすぐ注がれる理知的な瞳の視線にぴんと張った背筋、長い足が伸びる裾の長い清潔だが少しだけくたびれた白衣を着た佳代さん。その姿を見て好きで好きで好きだから憎くなった。
 佳代さんはどうして僕を振ったんだろう。そりゃ確かに、確かに僕は彼女にひどいことをした。僕は好きだから彼女に告白したんじゃない。そのことをずっと隠している。これは裏切りだろう。
 でも。
 でも、今はこんなに好きでずっと彼女を大切にしてきたと言い切れる。
 なのに佳代さんは突然になんの理由も言わずに傷つけて去っていって、そしてまた僕の苦悩など知らずにこうして現れて。僕の気持ちなんか佳代さんはどうでもいいんだろうか。
 悲しくて苦しくて狂おしくて僕の頭の中で、ばらしてやろうか、と暗い声が囁いた。声の主は僕だった。僕の負い目を、彼女への裏切りをここで全てぶちまけてしおうかと、綺麗な朝の光の中で独りだけ汚い僕が考えた。
 それでもそれを留めた最後の理性に、結局何も言えず負の衝動を飲み下してうな垂れる。視界から佳代さんは消えたけれど、僕を厳しく刺す視線の存在は逆に増したような気がした。痛い。
「大学に来ないようになって、酒に酔って今ももうどこかからふらふらと帰ってきて」
 下を向いた瞳でも佳代さんの足元だけは見える。少しだけくたびれた白衣の裾が揺れている。
「私と付き合っていた時よりもひどい有様じゃないか」
 憤然と佳代さんは言った。
「別れて今は赤の他人になったとしても知人として忠告ぐらいはさせてもらうぞ。付き合っていた最後の時、つまりここ最近だが、君はとても疲労していた。ぼろぼろになって見るに耐え兼ねないほど」
 僕はただ呆然と顔をあげて佳代さんを見た。真っ白な朝の光の中で、佳代さんが凛としてこちらを睨んでいる様はとても綺麗だった。その姿を目にしてああ、と不意に胸が泣くように軋んだ。
 僕は、この人が、好きだ。
 付き合ってくれと言った時は、そんな気持ちはなくても今これだけ抱いているならそれを帳消しにできると、いけしゃあしゃあと考え自分を許して、逆恨みで彼女を傷つけようとした先ほどの僕を心底殺してやりたいと思った。何を図々しく、そんなことを考えたんだろう。僕はこの人が好きなのに。
 それが罪だとしたら、それでも今はひどく好きなのだとしたら、口を噤むことが永遠の沈黙を守ることが僕の義務だ。たとえ別れたとしても振られたとしても、この人を絶対に傷つけてはいけない。傷つけない。なにがあっても。ばらすわけにはいかない。確実に彼女を傷つける、これだけは絶対に。なにがあっても。僕はばらさない。
 そう硬く決心した僕の前で佳代さんは凛々しくたたずみ僕にびしりと指を突きつけ
「君が同級生とのカードゲームで大敗しその罰ゲームとして私と付き合うという指示を課せられ実行してから最近までまあ上手くやってきたと思っていたが」
「ばれてるーっ!」
 全ての決心が瞬時に霧散して地面に膝を付いて頭を抱え心の底から僕は叫んだ。
 しかしその上から佳代さんのどこまでもマイペースな声が続く。
「私と付き合うことで君がそうまで疲労するほどに心身に負担をかけると、まじまじと目の前で証明させられて、故に私は身を引いたのにこれでは本末転倒だ」
「ちょっ、ちょっと待って! 佳代さん!」
「なんだ」
 その懐かしい聞き方に物凄く場違いながら、ああ佳代さんだと何か温かいものを感じてしまった僕は慌てて首を振って
「し……知ってたの? その、僕が、佳代さんに、その、げ、ゲームで負けて告白したこと」
「ああ。見かねた君の友人が私に事情を説明しにきてくれた。「なはは、あいつ、まだ付き合ってんの? あんたさー、かわいそうだからそろそろ気付いてやれよ。あいつ、俺らとゲームしてそれの罰ゲームであんたにこくったんだけど、気ぃ弱いからびびってずるずるつきあってんだよ」と誠心誠意をこめて」
「こもってないこもってないこもってない!! 昴の野郎だな、その口調!」
 どうりであの軽薄で薄情な昴の奴がやたらと僕に親切めかしたわけだ! あいつは自分が佳代さんにそれをばらしたから僕が振られたのだと思って今さらながらに青くなったんだな。
 今思えばどこか不自然に目を横に向けていた昴の顔を思い出して、絶対に殴ってやるあの野郎と殺意が芽生える僕の前で佳代さんはマイペースに
「せっかくの忠告だったのだが、「こくる」という動詞の意味が薄学の私には理解できずに、辞書を引いても分からず、しばし手間取ってしまった」
「いや載ってないから」
 またも反射的に答えてしまって、僕は昴への瞬間的な怒りが冷めた。次に浮かんできたのはある可能性だった。それに思い当たって、急に激しくうち始めた心臓の音と共に考える。ばれてはいた。けれどそのことで彼女は僕を振ったわけではない? 僕は彼女と付き合い始めてから徐々に生まれ始めて、昼となく夜となく苦しんだ罪悪感を抱えて恐る恐ると
「あの……佳代さん、そのことで怒ったり、傷ついたりしないの?」
 聞くと、佳代さんは不思議そうな顔をして
「なにを今更。よくあることなのだろう?」
「ないよ普通」
 思わず僕が素でツッコミをいれてしまうと、佳代さんは首をひねって
「それはおかしいな。君と付き合うにあたって参考文献として読んだ恋愛物とかいう小説や漫画には頻出したパターンだぞ」
「……」
「む、もしや資料が古かったか? ぬかったな」
 佳代さんが普通の人間とは大幅にずれていることに今ほど脱力かつほっとしたことはなかった。謝るべきなのかしかし謝れば絶対にそのことにたいして追求がくるぞと僕は必死に考えて、それからほんとはかなり気になったんだけれど、ばれていた事実の前に追いやられていたことを口にした。
「さっき言ってたけど、佳代さんは僕が佳代さんと付き合うことを重荷に感じて疲れてあんな風にぼろぼろになったので見かねて別れようと思ったの?」
「その通りだ」
 明快な佳代さんの答えで目の前に明るい光が見えたような気がした。けれど有頂天になるほど実感ができずに僕はそわそわと
「いや、僕が疲れていたのは、お金を作ろうと思ってちょっと無茶なバイトをしていたからで、決して――」
「私に手切れ金を渡そうとがんばっていたのか? 君の誠意には頭が下がるが、付き合う相手にいちいちそんなことをしていたら身がもたないぞ」
「いや、そうじゃなくて」
 口でこの人を説得できないと思った。そこで咄嗟に鞄を探ると、ごちゃごちゃと詰め込んだ奥底に硬い四角の感触があったので、掴んでおずおずと「それ」を差し出してみた。
「なんだ?」
「開けてみたら分かるけど」
「私にか」
「うん」
 そこで佳代さんは受け取ってぱかりと開いて、そこにある者に目を丸くさせてばっと僕を見た。やっぱり最初からこうして現物を見せれば上手く……
「手切れ金に貴金属を? ご両親のものを持ってきたのか? そんな切羽詰まらなくても訴えたりしないぞ、裕福ではないが君に縋るほど金には困っていないからな」
 上手く、いかなかった。
「違う違う違う!」
 大きく僕は否定しながら、というかどうしてもそういう方向に帰結する佳代さんになんだかんだ言いつつ僕と別れたいんじゃないかと、よぎった想像を怖くなって押しのけて、仕方なく僕は佳代さんよりかは二倍は悪い頭を総動員させて、二日酔いの頭痛も忘れてなんとか言葉をひねり出そうとした。
「え、ええっとですね、その僕は貧乏学生の身なんで」
 何故か敬語になる。いけないいけない。
「バイト一生懸命して買ったんだけど……」
 誕生日プレゼントに、と言いかけて、僕は不意にこの人しかいないんだと気付いた。憔悴して酒漬けで疲れた頭が血迷ったどう考えても錯覚だったけど、それでも僕には佳代さんだけだと気付かされて、一瞬とても打算的だが頭に素早く指輪の値段を浮かべさせる。世間的にもなんとか許される範囲だと思う。いける、と思ってそして言葉はそのままおずおずとしながらも口から出ていた。
「え、エンゲージリングということで……」
 佳代さんはさすがにその言葉に少し目を見開いて僕を見て、それからまだ掌に他人行儀に乗せていた箱を、今はなんだか万引きでもするような手つきで、さっと白衣のポケットに突っ込んだ。それから初対面の人には睨んでいるのかとも誤解される静かな瞳で一言。
「返さないぞ」
「え、ええ、ぜひとも」
 気後れして答えてそれからもしやこれは承諾かと半ば無感動に思った。それから佳代さんはとことこ歩いていき、またベンチに腰掛けた。それだけには収まらずにぽんぽんと隣の背もたれを叩くので座れと言っているのだと気付いて僕も腰掛けた。
 並んで腰掛けて目の前にだかだかと広がる黄色と紫のパンジーでできた花時計を見つめる。花時計が示す今は十一時だ。本当なら大学の講義があるはずの時間帯なのに。佳代さんは僕の隣にいる。
 そのことをぽつりと思ったところで佳代さんが
「仲井健一君」
「は、はい」
「私は前々から思っていたが。」
 そこで佳代さんは少し呆れたような目で腕を組む。
「君は女の趣味が悪いな」
 僕は脱力してずりずりとベンチの背もたれに体重をかけた。それから佳代さんの横顔をちらりと見た。
 佳代さんは端整だけれど固まった顔でじっと前の花時計を見ているようで、本当は見ていない。その様に僕が好きな佳代さんのいいところは、今と同じように僕が話していても本を広げていて話を聞いていないと見せかけてでもよく見ればいつまでたってもページをめくることがない手とか、それに気付いて僕がじっと見ると佳代さんもそのことに気付いて途端にページを一秒間に一枚ずつめくりだすときなんだよな、と思った。それから、大学の十字路の向こうから僕が歩いてくるのに気付くとなんとなく靴紐を直してみたり何気なく歩くペースを落としたりして偶然を装って出くわそうと努力してるときとか、誰もいないゼミ室のソファで白衣の綻びを繕っていて、最後にハサミを使わないで歯で糸を切るちょっとした仕種や、なんにでも真摯でまじめな態度を崩さないところとか、別段普段と何の違いもないように見せてちょっとだけ薄い色の瞳がくるくると回って笑っていることに気付いた時とか、そこまで無意識に考えてうわ僕も結構思ってるな、とかすかに呆れて。彼女の魅力をあげろというならまだ他にも色々あるんだけど。
 多分きっとなにを言っても無駄なんだろう。疲労を感じて背もたれの向こう側に腕を出すと、少しだけなげやりに
「そういう佳代さんの男の趣味はどうなのさ」
「決まっている」
 逡巡の様子もなくきっぱりと答える佳代さんの目は、今まさに結婚の申し込みをされた相手とは到底思えない静かで理知的な目で。昴の馬鹿野郎が理知的にも限度がある、と言ったがこれがいいんだろうがあの馬鹿野郎。そう僕が思っている前でその続きを佳代さんは理知的な横顔で告げた。
「最高だ」
 やっぱり限度があるのかもしれないと、僕は赤くなりながら考えた。


 
 完



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