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  「パーソナルスペース」



 小さな頃から自分の部屋に誰かが入るのは嫌だった。
 それは親や身内でも同じことで、思春期には特にひどくなった。
 どんな相手でもその衝動は容赦しなかった。当時、一番仲良くしていた年上の従兄も笑顔で迎えてはしゃいで部屋に入るけど、ふっと水がさすように自分の空間に誰かがいることに違和感を覚えてさめた。
 修学旅行だが部活の合宿だのの体験を経て、それは自分の部屋だけに及ばないことを知った。まあ自分以外の部屋なら、飲み屋の個室だのカラオケルームだので嫌悪を覚えるようなことはない。だけど、たとえ外でも人の家でも誰かと一緒に一つの部屋をわけあっていると、どうにも俺には違和感がつきまとった。
 もちろん、そんなことを公言するほど馬鹿じゃないので、ほどほど隠してやってきたつもりだ。友人とも同僚とも恋人とも。

 パーソナルスペース。

 他人に踏み込まれるのを許せない距離。俺はそれが極端に広い。
 


 背後に流れる朝のテレビからは、定番のあがり口調で商品に驚いてみせべた褒めしてみせてにっこりうなずきあって電話番号を紹介するコントが流れている。時計がわりにつけたので、興味がないそれを背後に洗面台にむかう相手を腕を組んで見やった。
 高すぎる背を少し丸めるようにして、しゅわしゅわと出した泡を掌から顔の下半分に塗りたくる。正直、と口癖をおいて泡に包まれた口が動く。
「三秒に一度売れているとか、今までに100万枚売ってるとか銘打っている広告見ると、じゃあもうわざわざ宣伝までして売る必要はないだろう、という気になる」
「不快なのか?」
「不快というか」手にした髭剃りを左頬から右頬にあてなおして、鏡に向かって呟いた。
「理解できない」
「まあ、欲がないお前にはそういうの、わかんないかもな」
 100円ショップのバンドで髪をまきあげて、それでもぴんぴんと逃れた短い髪がはみ出ている。梳いても剃っても抜いても、隙を見ては新しい場所から生えてくる、と忌々しそうにうなる相手は無意識に、テレビで誇らしげに手をふる育毛チャンピオンたちすべてに喧嘩をうっているんだろうな、とくだらないことを考える。
 刃がなぞった泡の下から、つるんと毛が剃られた肌があらわれて、端っこに残った泡を洗い流すとようやく洗面所があいたので、生暖かくなった歯磨き粉入りの唾を吐き捨てた。
 がらがらと水を流し込んで、ようやく一息をつく。それでも相方の念入りな髭剃りの間にしみこんでしまった、舌に残る歯ブラシのミント味に眉寄せる。
「ちょっと離れた隙に、朝のお手入れ開始とかひどくねえ?」
「歯磨きの最中に場所を離れる方が悪い」
「朝刊とりにいっただけじゃん」
「台所の流しですればいいだろう」
「生理的に無理だって」
 あれ食べ物洗うとこだぜ!? と強弁するも、相棒は素知らぬ顔をタオルでゆっくりとぬぐい終わってから、こちらを向いた。
「トイレも流しも人数分に届かない大皿の上のおかずも、すべて早い者勝ちだ。確保しつづけられないなら、どうぞ、と札をさげているのと同じだよ」
「欲がない、ってのは撤回だ」
 虚しい抵抗を試みると、にっと意地の悪そうな形に唇がつりあがった。
「自分に必要な分をしっかり確保するのは、欲深いとは言わない」
 そうして俺の洗面所を我が物顔で占拠して、髭をそった女は笑った。



   たまにうちに転がりこむ相方が理解不能、と呟くが、広告というものには人間心理のツボを確かに抑えて展開されているものだ。
 特にテレビショッピングなんて、あれだけ長いこと続いて続いてそれでもまだすたれることをしらないのだから、人間心理のツボをしっかりと抑えていることが多い。まずは科学的、または化学的な根拠の提示。○○大の××教授推薦、とか権威付け。デモンストレーション。コーヒーいっぱい分のお値段など、イメージしやすい単語への置き換え。そして、今朝に相方が頬に剃刀をあてながら言ったように、何十万人が愛用しています、との数。それを魅入っているうちに、電話に知らずに手が伸びている。「受付は今から30分以内に!」なんてテロップが出ればもう追い討ちだ。
 すべて型通りだが、その型が有効なのは確かだ。
 別に俺の勤めている会社がテレビショッピングに手を広げているわけではないが、広告会社、の一言に部外者の想像は大雑把に同じ枠に放り込まれてしまうのかもしれない。
 これで広告業界も大変なのだが。クライアントと広告を投げる相手の双方に挟まれて、クレームだって両方からやってくる。がんばったって必ずしも成果があがるわけではない。渾身の仕事が、ぽっと出た、出来合いの、え、マジでこれ出すの冗談じゃね? と思ったようなのに負けることもままある。
 そういう話をたまに愚痴ると相方は、君がよく勤めてられるなあ、と広い肩に首をすくめて笑う。甘やかされたひとりっこのお坊ちゃんが、と他の人間が胸中だけで付け足すのを
「甘やかされたひとりっこのお坊ちゃんが」
 にっと笑って相方はわざわざ口に出す。
 風呂から翌朝までの限定された時間にかける、黒ぶちめがねにタンクトップにタオル。風呂上りなのに眉がしっかりしているのは、最近では貴重かもしれない。化粧を落としたのに、まるでそれを感じさせない派手な目鼻立ち。生乾きの天然パーマをばさばさと垂らして、ソファを避けて床にあぐらをかき片手には缶ビール。片手には広げた夕刊。一歩間違えると物凄くおっさんくさいのに、これが不思議と男前だ。
 しかし、まったく欲情しないというのは嘘だ。表情やしぐさが男臭い、といったって、そこに歴然とあるのは女の身体だ。しかもたいしたことないたいしたことないと言い聞かせても、目をつぶるにはややもったいない、とどうしても腹の底で呟いてしまうような。
 風呂上りのタンクトップと短パンの薄着だし、胸も足もそれなりに細いがむっちりしたところもある。俺より3cm背は高いが、バランスはいいので違和感はありない。でけえ、迫力ぅ、と続いて、派手な顔立ちもあわせて外人モデルのようだ、と初めて会ったときは思った。好みにジャスト、というわけじゃないけど、多分学生時代なら我慢がきかなかったろう。
 とにかく問題は外観にあるわけじゃない。中身だ。普段はあまりに広告会社と縁がない会社のクライアントとして会って打ち合わせがてらの飲み会→つぶれてうちへ→一泊。  相手のことなど名前ぐらいしか知らないうちからある意味最終行事をすましてしまった(外側ばっかりで内情は清清しいほど何もなかったが)朝。
 呆然とする俺の前で、俺の髭剃りを勝手にあてがいながら、ここはいいな。8時台に起きても十分出社に間に合う、と言ったクライアントになにが言えよう。
 向こうの責任者でまして全然親しくなくて俺は男で、おまけにそんときワイシャツを脱いだ後のTシャツとトランクスのすねげ姿。
 綺麗に顔を処理した後、相方はようやく鏡から俺に顔を向けた。そして初めてニッ、とあの悪い男の笑みを浮かべた。
「君は一人っ子だろう?」
 実に唐突だったけれど、本当なので頷いた。
「私には三人兄がいる」
 だから男臭いというのか、慣れきっているということなのか、はたまた脅し、牽制だったのか。言葉の真意などいまだにわからない。こんな調子でずっと中身なのだ。何をするか、何を言い出すか、見当がつかない。
 ともあれ仕事の場では、まったく別人のようだ。てきぱきとしてこちらに隙があれば容赦なくついてくる、やり手のキャリアウーマンそのものだ。その案件は何事も問題はなく終了した。
 多分、世間的に問題だったのは、一ヶ月にも満たないそのうちに、奴が俺の家に泊まったのは三度になったということ。
 そして、今現在。
「人の物を欲しがらない。差し出されたときに周囲を確認しない。好物は最後にとっておく」
 イエス、イエス、イエス、と続けて奴はくっくっと笑う。こうしてみると、にっとひきしぼった線は長くて、真っ赤な口紅を全部ぬぐいとったって大層な迫力だ。童話の赤頭巾は狼にどうして口が大きいのと聞いたっけ。喰われて当然だ。
「全部が全部、一人っ子の特性だな」
 大きな口に鋭い牙に、非捕食者はそっと知らぬふり。酒の肴がわりに俺をいたぶるのがお気に入りという、なめるなこのアマゾネス。




 テーブルの上がうなっている。マナーモードのままの携帯だった。ちっとも反応せずにビールを飲む相方をちらっと見て、俺は手に取った。
「ああ、母さん」
 テレビの音が小さくなったのを意識しながら、俺はそのまま椅子に腰掛ける。「ああ」とか「え?」とか「うん」「まあね」とか、だいたい4パターンくらいしかない相槌をローテーションさせて、会話を終わらせた。携帯をきってふと顔をあげると、相方と目があった。黒ぶちめがねの向こうから、やや色素の薄い瞳が瞬いている。
「親御さんから?」
「ああ。唐突だよな、親って」
「定期的に近況を知らせないからだ」
「そういう用件じゃなかったんだよ」
「なら、なんだ?」
「見合いの斡旋」
 ほう、とようやくビールが口元から離れた。
「承諾したのか」
 俺は答えずにソファに腰掛けて、ちゃぶ台の上でまだ汗をかいている缶を手に取った。
「うーん。正直なところ今までも何回かあって、それはつっぱねてきたんだけどさ」
「心境の変化が?」
「一生の相手くらい自分で決める、とつっぱねるのも時間切れかな。そろそろ身を固めるか、と思ったときに、これからの出会いの率を計算する。すると今まで無限に見えていたもんが有限に見える。自信がなくなると、妥協にも傾く。心の声が囁く。見合いで悪い相手がくるとも限らねえ、ってな」
「妥協とも言えまい。本当にそうなるかもしれないんだから」グラスを傾けて奴はニヒルな笑みを浮かべた。「すると、私は自重した方がいいかな」
 その声が届いて俺は一拍おいてから相方を見やった。
「なんだって?」
「君の母上が選んだお相手なら、それ相応の格式ある相手だろう。そういう相手と接するにあたって、家に頻繁に出入りしている女がいるというのはまずくないか」
「……ああ。そうか、そういうことになるのか」
「私が先に世間体に気付くのは面白いな」
「だってなあ、事実が違うから。俺んちいいように別宅扱いしてるだけじゃねえか。会社に近いからって」
「だが世間から言えば半同棲だ」
「同居の間違いだろ」
 俺は立ち上がり、箪笥に向かった。
「一週間後だって。スーツあれでいっかなあ」 
「選んでやろうか?」
「自重するんじゃなかったのかよ」
 箪笥からひとつハンガーごと取り出す。
「いいんだよ。これは結構社内の女子社員にも好評だし」
「本当に?」
「社内で一番人気の女の子がいいって言ってくれたんだぞ」
「権威付けにはならないぞ。世辞がうまいと男にもてるからな」
「女をよく知ってるみたいに言うな」
「知ってるとも。君に大変な秘密を教えてやろう。私は実は女、だよ」
 おどける相手を横目でちらりと見て、また箪笥に向かう。
「俺ってさ、昔から、自分の部屋に誰かが入るのは嫌だったんだ」
 奴が怪訝そうな顔をしたが構わず続けた。「それは親でも同じ。思春期には特に嫌になったな。何日も前から会うのを楽しみにしていたちょっと年上の従兄も、すっげえはしゃいで部屋に入れるんだけど、ふって水がさすんだよ。自分の空間に誰かがいることに違和感を覚えて、気持ちがさめるんだよ」
「それは感じが悪いな」
「隠したよ。さすがにさ。自分の部屋だけじゃなくてさ、修学旅行だが部活の合宿だので、同じ部屋ってだけでダメだってわかったよ。自分以外の部屋なら、飲み屋の個室だのカラオケルームだので嫌悪を覚えるようなことはねえけど。でも、たとえ外でも人の家でも誰かと一緒に一つの部屋をわけあっていると、どうにも違和感がな」
「パーソナルスペース」
「あ?」
「他人に踏み込まれるのを許せる距離。人によって広さ狭さがまったく違う」そうしてからからと笑う。「実に一人っ子発想だ。兄弟が多いとそんなことを言ってる前に追い出されるな」
「一人っ子原理主義者め」
 差別者は口笛を吹いてそれを交わした。そして乾杯するようにもうほとんど残っていないビールの缶を掲げた。
「いれられる子だといいな。君の狭きスペースに」
 誰もいない空中で打ち合わされて、ビールの缶が揺れた。



 休日なのに一番堅苦しいスーツを着て出かけた高級ホテルの一室。テーブルの向こう側の席に座った相手はまあ可愛いと言っていいのだろうけれど、それより滲み出てる人品というか人格が目をひくタイプだった。
 ちょっと小柄で、頭はお団子にして、赤い着物を着ているところは七五三を思わせないでもない。目があうと小さく笑いかけられた。垂れた目からおっとりとした人の良さを感じる。緊張とかもあまりしてなさそうで、親戚くらいに持つ親しさを初めから感じた。人にたいして壁を作ることのない子だな、と思った。他人の善意を無条件に信じているタイプで、大事にされてきたのだろう。
 一人っ子だろうか。
 軽く思っていると、向こうから説明された。一人っ子だった。自分の動作のぎこちなさを率直に笑って説明する。
「お着物が苦手で」
 でも着物でないとすると、結構、服の選択が困ってしまって。
「男性はいいですね。結婚式とかでも正直、羨ましいです」
「女性は華やかに見えますけど、こちらにはわからない苦労がありますね」
「自分で着れもしないものを着るのは、見栄のような気もするんですけれど。朝から大騒ぎで、でも自分は立ったまま、着させてもらうのは自分が幼児にでもなったみたいで」
   池のそばを歩きながら小さく笑った。
「お仕事は、どうですか。広告業界って、世間からは華やかなイメージがありますけど、そういう世界って内実はとても地道で大変そうな印象があります」
「本当に地味ですよ。なんというかな。雑務の塊みたいな感じで。それでも発信する立場なので、ミスは許されないし、プレッシャーも半端ないし」
「それでいて必ずしも、報われるわけでもない。大変ですね。その点、公務員は気楽だと言われても返せません」
「公務員には公務員の苦労があるでしょう」
「大きな声では言えないご時世で」
 悪い子じゃないなあ、と凄く思った。会社にいれば惚れるかどうかはわからないけれど、それなりに好意を抱けるタイプだろう。柔らかいし穏やかだけれど、自分なりの考えというか哲学みたいなものも備えていそうだし、バランス感覚もあるようだ。総じて未来にある出会いの可能性として、決して悪くない。
 最後の方で彼女は俺を向いて言った。
「だいぶ緊張していたのですけれど、とてもお話ししやすかったです」
 遠回しな総評というところだろう。うなずいて「僕もです」と返した。
 それから少しだけ間があった。次に続けるなら、こちらから何かを言う場面だろうな、と思う。話しやすかった。悪い子じゃない。よく知っていけば、尊敬もできそうだ。
 でも、そういうことで評価を下すのは難しかった。なにしろ一生の相手だから。どうすれば判断できるのか。また会いたいと思うか。会ってもいいと思う。悪くはない。ただ。ふと自分の部屋が浮かんだ。



 前にも言ったが、奴の行動に想定外という言葉はない。というか想定というものを作らない。だからこれだって想定内だ。
 見合いから帰ってみると、タンクトップに短パン風呂上りの定番スタイルであぐらをかき、買ったばかりのデジカメの説明書を読んでいる、なんて。
「……なにしてんだ」
「買ってみた。最近は操作が簡単になったときくから」
「機械嫌いじゃねえの」
「嫌いではない」
 機械は私を嫌うがな、と俺のBDの取り出し口を無邪気に壊してくれた相手はひょうひょうとしている。
「――つーか、なにしてんだは、なんでいんの? って意味なんだけど」
 一週間音沙汰なかったからこれにはすっかり油断していた。だからだろうか。いつもなら返事を待つところを続けてしまった。
「自重するっていってただろ。見合いでさ」
「だから今日まで自重しただろう」
 説明書から目を離さない相方に、俺は今日の見合いの件もあってどっと疲労がのしかかってきた。ネクタイを引き抜きながら寝室に足を向けると「風呂がわいてるぞ」と声が後ろから追ってくる。そーだろーな……ばっちり風呂上り姿だもんなあ。
 熱い湯船に身を沈めてから、さらに疲れたような気分で風呂からあがってみると、タンクトップと短パン姿で、床にあぐらをかく相手は説明書から本物へとうつって大きな掌に小さなデジカメをのせて物珍しそうにいろいろいじっていた。どこまで疲れることができるのか、俺を試しているような日だ。
 音にならないため息をついて、声もかけずにテーブルにつくと、カシャカシャと小さなシャッター音と「おお、思ったより鮮明だな」という声が聞こえてくる。ほとんど無視したが、フラッシュまで瞬いたときには反射的にそちらを見た。すると長い腕をいっぱいにカメラから放して、自分撮りを試していた。
 もう自分の身体を寝室のベッドまで運ぶ元気すらありゃしない。
「よし」
 と力強い声と共にすっくと相方が立ったので、目だけでそちらを向いた。
「帰る」
「は?」
 開いた箱の上にカメラと説明書を大雑把に詰めて、相方は寝室に入っていき、数分とたたずにスーツ姿で出てきた。タイツまで履いていて、本当に帰る気だ。
「仕事か?」
「そうじゃない」
 爽やかにふられたカールがかかった(奴の言では天然らしい)髪はまだ生乾きだ。
「まだ自重期間継続、ということだろう」
「は?」
「私だって気を使うことぐらいはできる」
 俺は多分ぽかんと口を開けて見上げていたと思う。そこにあるのは自信に溢れて、ゴージャスというか大振りというか、奴特有の輝くような笑みだ。
「見合いがうまくいってよかったな」
 邪魔をしたな、と今まで一度だって聞いたことがないような一言まで付け足して、相手はやけにうきうきした様子で玄関から去った。ドアが閉まる音が楽しげに響いて、ぽかんとした俺は疲れもあってか、怒りがわきあがってくるまでかなり間があいた。
 正直、もうこないんじゃないか、とちらっと思った瞬間、すきっ腹にあおったビールのように一気にカーッとあがってきた。八つ当たりできる代物を求めて周囲を睨む。
 何かを蹴っ飛ばしたい殴り飛ばしたいでもなんにも見つからずに頭をかきむしってあーっ!!と大声を出した。雑誌を床にたたきつけ、しっちゃかめっちゃかに空をかき回す。壊したいものはわかっている。このちんけな空間とそれを作り出す箱そのものだ。散々無駄な戦いをした後に、認識する頭の方をぶっ壊すことにして、冷蔵庫をあけ中の酒をすべてかき出した。



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 ――
 目が覚めて最初に、着信を確かめようと頭上のスマホを探った。
 途中で自分の行動に我に返ってのたうち回り、二日酔いの頭にくわえられたその暴挙に、声も出せずにぷるぷる震える。


 着信音に気づいたのは、その五分後だった。






   私鉄の小さな駅前で立っていた奴は、ジーンズと裾が眺めの無地のシャツ、というざっくばらんな格好。スーツ以外じゃ、タンクトップと短パンしか見たことがないから。今までが今までだったので、仕事が終了してから外で待ち合わせ、という普通さも異常だった。
 駅を降りたところから、こじんまりとした商店街が広がっていて、なんとなく物珍しい。夕暮れどきのせいかにぎやかで、学生の姿もよく見える。こういうのを下町というのだろうか。
「下町というんだよ」
 裸の足にそのままつっこんだざっかけなサンダルがアスファルトにかつんと音をたててる。飾り気のないラフな格好だけど、不思議としっくりきている。ぼちぼちすれ違う人や店の人間と挨拶をかわしたりもする。その様子に
「結構、実家帰ってるんだな」
 意外に思ったことをそのまま口にすると、相手は振り向いた。
「言ってなかったか? 私は実家通いだが」
「……は?」
「大学も近かったから、まだ家から出たことがない」
 呆気にとられてしまった。あのばりばりの、でっかい、モデルみたいなやり手のキャリアウーマンが実家暮らし。
「意外か」
 呟いて、相手はくつくつ笑った。「すぐに顔に出る」
「……」
「怒るな。自立している君を、それなりに尊敬しているぞ」
「……なんなんだよ、今回のは」
「両親が言ったことは本当だ。ついでに君に、兄弟が多い、ということを味わわせてやろうと思ってな」
 音沙汰なかった奴から突然に入った、実家に晩飯を食べに来ないか、というまったく意味不明な電話。
 なぜ実家なのか、なぜ晩飯なのか、まるで意味がわからない。君に迷惑をかけている、というと両親がぜひともと、と付け足された言葉の色々なところにも驚愕。
 着いたのはやたらだだっぴろい建物だった。家、ではない。大型トラックがそのまま前進できるほどの大きな口をあけたコンテナ。町工場というのだろうかと思っていると、町工場というのだよ、また言われた。
 こっちだよ、と言って奴は、工場に隣接したちょこんと小さな戸がある、横の平屋に入った。え、と俺が戸惑っているうちに、がらがらと硝子戸を横に引いて入る。ちょっと乱雑な感じの玄関に、サンダルを無造作に落としながら連れてきた、と声をかけた。
 ひょいと奥から顔を出したご両親は、こけしのようにこじんまりとした似たもの夫婦だった。娘と名乗る外人モデルの奴とあまりに重ならないので、ほとんど無意識に挨拶をしたあと、思わず奴の方を見そうになったとき、むっくりと奥から大きな影が動いて、でんでんでんとどこのアメフトチームメンバーでしょうか、というでっけえお兄さんが3人姿を見せた。
 しょっぱなのインパクトで狼の前の子羊よりも大人しくなったいたいけな俺の前で、こけしのお父さんとお母さんがどいつもこいつも祖父母に似ちゃって、と笑う。そ、そうですね、と反射的に言うのが精一杯で、うまい相槌が浮かばない。
 そういうデカ四兄弟が四角いちゃぶ台を囲むとたいした迫力になったけど、別にお兄さんから威圧感は全然なかった。その体躯に少し慣れてしまうと、最初に会ったときの相方の方が迫力があったくらいだ。まったくそういう対象として見られてないんだろうな、と屈託ない歓迎の様が微妙だ。
 こけし母さんとこけし父さんがせっせと台所を行ったりきたりで、さあ、先に食べちゃってください、といったとき、そろっていただきます、とかはしないんだろうかとちらりとは思った。ちょっと期待したんだが。まずはじめ。レタスをたくさん敷いた山盛りのから揚げの皿がことんとテーブル中央に置かれた。凄い量だな、と思ったが、ともかくすいません、ありがとうございます、とこけし母さんに頭を下げて顔を戻したとき。
 から揚げの皿は消えていた。
 いや、皿はある。それに油にひたってちょっとしおれたレタスも。
 しかし、綺麗に山になっていたから揚げがない。一個もない。本当にない。え?
 もやし肉いためがきたときも同じことが起こって、肉じゃがのときは用心してテーブルから目を離さずにいたら――。
 見ものだった、といおうか。いや、正直これはギャグかと思った。8本の箸が完璧に同じタイミングで突き出される、と同時にそんなに箸でつかめるのか、という分量をごっそりとっていき、最後の手が皿をつかんでざっと総ざらいしている。いや、さっきだって皿からは消えていたものの、両脇前方でもぐもぐ顎が動いているのにほんとは気付いていたが……。
 俺が唖然と行き先の一つを見ていると、左隣に座ってる角刈りのお兄さんと目があった。箸使いがお上手ですね、とでもコメントしようかと俺がすすけていると、お兄さんはちょっと困ったような顔をした後、ご飯に乗っていた肉じゃがをそっと俺の前のとり皿においてくれる。そしてお兄さんは隣のお兄さんをつついて目配せをしあった。それからは示し合わせたように、3人のお兄さんが交代で少しずつ分けてくれた(とりあえず最初に確保する、という流れは決して変えないらしいが)おかげで食いっぱぐれることはなかったが。
 パリジャンがマサイ族の食卓に招かれたら、こういう気持ちになるんだろうか、とかぼうっと考えていると食事は終わってしまった。
 4兄弟のうち、一人だけ素知らぬ顔で食べ続けていたのは、正面に座った相方だけだったというのはどうしたもんか。
「甘いな、兄貴たちは」
 食べ終わって、食事は先に食べれるかわりに後片付けは自分たちで、というのがこの家のルールらしく、台所で大柄な身体を狭そうに縮めて皿洗いをした。
 その合間にこけし父さんと母さんはちゃんと確保していたらしい自分たちの飯をまったり食っていた。ちゃぶ台の広さの問題もあるかもしれないが、これがこの家の食事風景のようだ。
 俺は台所で手伝おうにもスペースがなくおろおろしていたら、こけしご両親に呼ばれて、娘がお世話になっています、わがままなもので、そんな話しを聞かされたあと。声をかけられて二階の部屋に案内された。
 六畳の畳部屋は外人モデルなみの外見の相方によく似合う、とは思えないが、そこはしっくりきている。あまり物のない、すみに畳んだ布団があるくらいの部屋だった。
「君に兄弟が多いということを味わわせてやろうと思ったのに」
「いや……」
 十分あじわった、というのは馬鹿にされるか。場もたせに足を組み替えた。畳の部屋ではあぐらをかくしか座りようがない。そしてあぐらの隙間から、少しだけのぞく畳を見下ろした。
 ここがこいつのパーソナルスペースなのだろうか。でも良くしてくれたご家族にはひたすら失礼だが、この環境じゃあプライベートなど確保するのも無理な話だろう。
「パーソナルスペース」
 まるで心を読んだみたいに、奴が口にした。
「ここでは君はまったく確保できそうになかったな」
「うるせえ」
「見合い相手とはどうなった?」
「……いい子だった」
 最初に会ったあの日で、終わりになった子だったけれど。別れ際に、本当に失礼だけれどもしこちらから断ることがあっても、決してあなたを気に入らなかったということじゃない。ただ…、と詰まるこちらを笑って許してくれた。そのときに一番、いい子だ、と胸がうずいた。
 あの子と比べて、どうとかいうわけじゃない。先に出会ったらすんなりあの子と結婚してたかもしれない。それくらいだ。運命だとかなんだとかない。勢いと時の運があるわけだ。
 ただ、自分の部屋にこの子を入れられるかと思い浮かべたとき、もうすでにそこには住人がいた。それだけで。そいつは住んでいることすらまったく意識してないけれど。
「そうか、いい子だったか」
 なんにも知らない奴を睨んで、いいさ、と思った。今に見ていろ。誰が、ただのクライアントつながりの厄介者の実家にわざわざ行って肩身の狭い思いしながら満足に食えない飯を食うか。誰が、わざわざどうでもいい相手がいる時間を指定をして見合いの電話をかけさせるか。
 パーソナルスペースは、自分の縄張りは、自分を守るってだけじゃないぞ。あれは狩場だ。俺が部屋に人を入れるのにこだわるのは、獲物をおびき寄せているからだって、おびき寄せた獲物が油断するのを待っていると、思い知らせてやる。
「それはなによりだな」
 と満足そうに言う相手を本当に憎たらしいと睨む前、ふと奴は机の引き出しから
「この写真を見たまえよ」
 そう言って差し出したのは、一枚のプリントアウトされたらしい用紙だ。複数の写真が貼り付けられている。変な写真だった。前面にでんとでかくせりだしたタンクトップ姿の奴と、その端っこにトランクス、Tシャツ、すね毛の俺が椅子に腰掛けている。前にカメラをいじっていたときのものだろう。
「……これがどうした? 前のときのだろ」
「たいした写真じゃない」
「だな」
 被写体が微妙だし、見切れていたり一部ぶれていたり、わざわざプリントアウトする意味がまったくわからない。
「ただし、お前の見合い相手に見せればたいしたことになる写真だ」
 俺は顔をあげた。変なことを聞いた。すごく奇妙なことを。だけどあまり普通なのでわからない。
「……なんて言った?」
「こんな写真を持っている女が現れたら、式直前でも修復不可能だろうな」
「……なに言ってんだ?」
「二つの場合しか考えられないだろう。お前を脅迫したいのか」
 それとも、と囁いてつりあがった肉感的な唇がプリント用紙の白い角をかしっとくわえた。白い尖った歯の先が少しだけのぞく。
「お前の見合いを、ぶっ壊したいのか、だ」
 血が逆流する、という感覚を味わったことはあるだろう。もちろん血は逆流なんかはしない。でも正常に流れていたものが、突然、間逆に反乱をおこすその瞬間。
 意識より速くしなった腕が袖に包まれた肩を手加減せずに突き飛ばした。あっけなく引っくり返る身体をほとんど同じタイミングになるくらいの速さで追撃して、肘から掌にかけてだっと顔のすぐ横、広がった乱れた髪を下敷きにして畳みに叩きつける。眼前の首筋の肌が白くて、知らずに握っていた拳がじりっと畳の目をこする。畳。
 ……
 たたみ。たたみがあるこのばしょ。一瞬だけ戻った理性がつげた。
 停止して頭を抱えるように丸くなる俺の下で、くつくつと震えるものがある。仰向けになっているのにまだ盛り上がりがあるものが。ふりちぎれそうな理性と必死に戦う苦しみ全部が怒りに還元されて俺は搾り出した。
「……おっ、前なあ……」
 実家。それも、初めてお呼ばれした実家。そして下では一家勢ぞろいの状況。我慢がきかなかったようにぶはっと本格的に笑い出す身体から、腕立ての要領で身を遠ざけて見下ろした俺の目にあった感情は、殺意に近いものだったと思う。
「なんでっ、この場で、このときに、言う!? ああっ、いっくらでも機会があったよな。俺の家でっ!」
「いくらでも機会はあったな。誰かさんが動かなかっただけで。私が、何度、お前の家に泊まったと思っている? 実家暮らしの箱入り娘でも、男の家に泊まることの意味くらい承知しているさ」薄い瞳の中で光が楽しげに回っている。「好物は最後にとっておくだって? 君は本当に馬鹿で失礼で考えがとことん甘い一人っ子だ」
 よいしょと身を起こして、あぐらをかいた奴は軽い調子で肩を叩いた。
「君に教えてやろう。兄弟持ちにパーソナルスペースがないというのは嘘だよ。どころか兄弟持ちこそがなわばり確保に躍起になる。せっかく得たなわばりを、新参者にとられないようにするために。どんな手だってうつ。君の部屋も君も」
 わたしのものだ、と低く甘く呟いて、かし、と俺の鼻先で口を開き白い歯が食いちぎる仕草をした。理性と怒りがちりと揺れて、腕の下から手を回してぐいっと引き寄せる。潰される胸の感触に少しだけ獣になって、唇に噛みついた。
「欲深め」
 離して睨むと、にっと意地の悪そうな形に、少し濡れた唇がつりあがった。
「自分に必要な分をしっかり確保するのは、欲深いとは言わない」
 そうして、豹のように、たった一口で、奴は。


 俺のスペースをかみ殺した。






 <了>






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