盆栽の枝ぶりがよい兆候を見せています。このまま育ってくれれば見事な一品ができるかもしれません。
 猫の額程度の庭の生垣にからみついて、するすると頭を伸ばす朝顔は白い十字の筋を描く中心からじわりじわりと青みがかかる赤紫の花をラッパの形に広げています。
 一体何年前に買ったのか、玩具のプラスチックのジョウロで水を注いだ草花に、水滴が流れて光ります。
 晴れた朝の空気はいつでも澄んで静けさが染み渡り、時たま古い我が家をがたがたと揺らして隣を駆け抜けていく大きなダンプカーも今朝は見当たりません。
 また、変わらぬよい日が始まりそうです。


 定年もあと一歩に近付いて、そんな老骨を気遣ってくれてか、たくさんの授業を受け持つことも厄介な仕事を押し付けられることも年々減りまして、二階の隅のこじんまりとした日当たりだけは良い研究室で日がなゆっくり本を読んだり、論文を書いたり推敲したり、授業のちょっとした準備をするのが私の主な日課です。それはとても静かな仕事ですが、そんな日陰の場所にもにぎやかになることがあります。
 いくら騒いでもいいせいか、私の研究室には私の受け持つゼミ生や、受け持った授業の受講生達が集まってきます。
 私は大学という場所が大層好きです。多くの夢や多くの境遇や多くの思想を背負った、若者達の輝きがほとばしり、私にはとうに過ぎ去った日々を目の前に鮮やかに広げてくれるからです。彼らは日々悩み、衝突し、決裂し、和解し、破滅し、再生し、怒り、悲しみ、喜び笑う。奔流のような、生の奇跡です。
 かさかさになった老木も、その中にいれば心持ち、若返ったような気分になり、刺激を与えられて凝り固まった、理論の袋小路に追いやられた、冴えない頭も活性化します。全く、彼らの素晴らしさときたら。この道一本で続けてきた職ですが、きっと何年たっても彼らから学ぶことは無数にあり、いつも私は驚きに満ちた毎日を送れるのでしょう。
 苦学生として一心不乱に勉強していたあの頃より、つたないながらも教える側としてこうしている今の方が私には青春といえるのかもしれません。
 遅すぎて長すぎてようやく終わりの坂に王手のかかったその日々は、そんな彼らの眩しさで満ちていました。輝きを放つ者はいつでも自らが放つ輝きは見えないものですから、このような枯れ木にこそもっともに彼らの素晴らしさがわかるというのは、少々の自惚れでしょうか。恥ずかしいことに、枯れた身でも、なかなかにそんな心地は去ってくれないものです。
 ですから、もう少し、ここに留まり最後まで彼らを見守っていきたいと、それだけが私の些細な望みであります。
 午前中のちょうど一コマ目が始まった時刻でしたので、校内に人は少なく私の研究室にも誰の姿も見えませんでした。
 電気ポットのお湯でお茶でも一杯入れようかと、買ったばかりのお茶っ葉の缶を手に取りました。円筒という形は掌にしっくりと馴染んで持ちやすいものです。ポン、と小気味よい音をたててふたが開いた瞬間、私はふとカツカツと実に歯切れのよい足音が私のいる場所に近付いていることに気付きました。
 そして気づいた瞬間に、明瞭なノックの音がしました。私はすぐに相手が誰か分かり、どうぞ、あいていますよ、と口にしてから、自らの研究室を見回します。誰もいません。少し残念ですが取り出す湯のみは私の分、一つだけでいいでしょう。
「失礼します」
 ぴんと張った声と共に、予想したとおりの人物が入ってきました。院生一年の北沢君です。いつものように長い白衣を翻し、颯爽と現れる背筋の良さは遠目にも目をひきます。
「おはようございます、北沢君」
「おはようございます」
 丁寧に頭をさげてたっぷり三秒後に頭をあげると、北沢君はさっと私が出てきた窓側の机の研究室でなく、入り口ちかくにおかれたテーブルと二対のソファだけが全ての小さな談話場に、眼鏡越しにちらりと視線をおくり、腕を組んでうむと頷きました。
 今の若者達の言葉で言えば、北沢君はばればれ、です。
 そこで誰もいないことを確認して、北沢君はもう一度私に目を向けて
「お茶ですか」
「お茶です」
「お手をわずらわせずとも私がします。先生は座っておいてください」
 北沢君に遠慮を貫くことは無理なので、私は甘えさせていただき、素直に缶を渡すと彼女はきびきびと動きました。北沢君のいれるお茶は実に美味です。
 手際よく談話室のテーブルの上、暖めた湯のみの淵ちかくに緑茶のつるりとした光沢が浮かびました。
「すみませんね、北沢君」
「なにをおっしゃいますか、先生。私が先生から受けた恩恵は、こんなものでは返せません」
 そう言って北沢君はもう一度さっと談話室を見回しました。残念ですがこのような密室で先ほどいなかったものが今現れるのは手品だけです。北沢君はうむ、と頷き
「では、私はこれで。お忙しい中、失礼いたしました」
 と言いながら一礼をし、北沢君は入ってきたときと同じ、颯爽と去っていきます。
 北沢君のきびきびした声が響いた後の研究室は、しんとしているように感じられました。私はソファに腰掛けて、いれていただいたお茶を含みました。
 お茶の温度といい、ほんのりと包む手の内側に伝わる陶器の湯飲みの温かさといい、実に美味です。しかしその時ばかりはせっかく入れていただいたお茶の味よりも気にかかることがあり、急須の小さな口と茶碗の表面の滑らかなライトグリーンからあがっていく白い湯気を見ながら、私は別のことを考えて、そして我知らずぽつりと口にしました。
「さて、どうしたものでしょうか……」


 仲井健一君という生徒は、礼儀正しく物腰が柔らかな私のゼミのゼミ生です。そんな人柄に顔立ちもなかなか端麗な好青年で、やはりこういう青年が今も昔も女性に人気があるようで、生徒達の会話から華やいだ言葉の節々にたまにその名を見かけます。
 その彼にたいして他の女生徒の例に漏れずに北沢君がああなってしまったようで。風邪を引いているのにそのことにいつまでも気付かない人というものがいますが、まさにその状態です。気付かぬうちに悪化して肺炎になることもあるので、一つおせっかいをすることにしました。
 こう長い間、不肖の身とはいえ教師経験を積んでいればどの生徒にどれくらいの課題を与えればいいのか、その見極めが自然にできるようになるものです。北沢君の力量を思えば、と考え、北沢君が質問にやってきたときを見計らい
「最近、研究室によく顔を出しますね」
 そう投げかけると、北沢君は思案顔でしばらく考え込み、やがて
「出していますか?」
「ええ」
 そうですか、と北沢君は呟き、やがて徐々にその顔に理解が浮かびました。ああ、これで北沢君は自分の気持ちは把握したようです。
「北沢君」
 口元に手をあててしごく納得した顔で俯く北沢君は、いつも通りの涼やかな横顔です。彼女はこちらを向きました。その彼女に向かって一つ頷いてみせ
「自分を遠ざけてしまうのも考え物ですよ。」
 北沢君ははい、と生真面目に頷きました。
 北沢君は、大変頭の良い生徒です。彼女の聡明さとは自らが決して頭は良くないと思い込んでいる、実にそれに尽きます。それに絶望し立ち止まることのない、飽くなき不滅さと努力に深い探究心、思考を常にうながす学問にたいするその姿勢は、普段の彼女の背筋を張り堂々と真っ直ぐに目標に向かって歩くそんな姿勢とまったく同じです。
 このように彼女の思い込みは、ある一面では大変よい効果をもたらすように思われますが、反面北沢君はある一面ですっかり「自信のない生徒」という部分が出てきてしまいます。
 それでもくじけ、うらみ、すねることなく、自分を否定しながら逃げるのではなく、真っ向から立ち向かい黙々と階段を登ってやってくる、そんな気高き姿勢が大変心地よいのですが。
 ともあれ。
 大切な教え子には幸せになっていただきたいと大変微力ながら望んではいるのですが、人には誰かに手を貸してもらえることともらえないことがあります。ですから、恋愛というものはとても悩ましいものなのでしょう。
 そのように、この時点で私はこの件に関しては悲観的でした。


 ゼミ室とひとつながりの研究室で仲井君が他の山本君と隣の田中先生のゼミのところの上城君がなにやら声高に話をしていました。二人の間に挟まれるようにしてソファに座っている仲居君は元々色が白い生徒ですが、その時は普段よりさらに白く、蒼白と言ってもいいくらいで、その横で上城君はとても機嫌がよさそうに、仲井君の脇腹を肘でつついていました。
 なにやら妙な雰囲気が漂っているな、と思ったので目を走らせると上城君とばっちりと目が合いました。
「鈴木先生ー、聞いてくださいよ。こいつ、今からなにしに行くと思いますー?」
「昴!」
 かみつくように仲井君が怒鳴りましたが、上城君はけらけら笑い
「こ・く・は・く、ですよ! それも愛の」
 その言葉に反対側の山本君がぶっとふきだし、上城君もそろってげはげはと笑います。
「仲井君」
 今にもその昴君の首をしめようとしていた仲井君がはっとこちらを見ました。
「誠実に、気持ちを伝えることがなにより大切です。がんばってくださいね」
 言うと、仲井君の顔色が変わりました。上城君の言葉に怒りで赤くなっていたそれが、前よりもさらに蒼白に。山本君と上城君が少ししかめた顔をつきあわせ、仲井君の腕を左右から掴んで立ち上がりました。上城君はまたへら、と笑い
「先生も応援してやってくださいよー。こいつの一世一代の告白!」
「そうですね」
 ドアが少し乱暴にしまり、こちらにも風がふきつけてきました。私は採点途中のレポートが広がった机に戻り、飲みかけの茶碗を手に取りました。陶器は冷えています。よく冷えたそれを一口含みながら
「さて」
 と呟いて今みたものはなんだったのかをゆっくりと考えました。
 その日の夕暮れ時のことでした。よく晴れた一日の綺麗な夕焼けが私が帰るのを待たずにゆっくりと校舎の線に身を沈めていってしまいました。
 事務に用事があるので帰り際に研究塔ではない端にある事務室に入り、用事をすませて出てきたとき、私はさくさくと地面を踏む足音と木立の中を歩く二つの影を目にしました。
 薄暗い日没時、しかも木立の影がかかって判別はしにくかったものの、その一人が北沢君であることはすぐわかりました。歩き方、姿勢、北沢君のそれは人目を引く特徴的なもので影だけでもすぐに分かります。
 声をかけるべきかかけないべきか、私が逡巡しているうちに影はぴたりと止まり、二人は向き合いました。緊張で掠れかすかに震える声が届きます。あ、これはいけないな、と私が急いできびすを返し事務室にとって帰ろうとしたとき、私の背を追いそれは半ば自棄のような声の大きさで
「ぼ、ぼくと付き合ってください、北沢先輩!」
 もう遅いのは分かっていましたが、とりあえず事務室に入りました。入り口で出て行った途端戻ってきた私に受付の方が怪訝そうな目を向けました。私は灰色のコンクリートで出来た建物の天井を少し仰ぎます。先ほど響いた大声。
 間違いなく。
 仲井健一君のものでした。


 家に帰るつもりでしたが、なんとなく研究室に引き返してしまいました。帰る仕度がすんですっきりしたそこで鞄を広げる気にもなれずソファに置いて、一息つくためにお茶を飲もうとおもいました。
 マフラーをはぎとり、やれやれと座ったところで突然釘をやたらめったら打ちすえるような音のノックの雨と共にたてつけのあまり良くないドアがびくびくと跳ねました。
「はい」
 私はどうも予期していたようで、平静に言うと、予想通りドアを勢いよく開けて、北沢君がずかずかと入ってきました。
「失礼します!」
「はい」
 ドアから部屋に入ってきても、北沢君はなおも直進し、私の手の中にあるお茶の缶を見ると、叫ぶように言いました。
「先生がなさらずとも私がします!」
「ありがとうございます」
「いえ!」
 ならば私が何かお茶うけをと思い戸棚に向かい合い、後ろから北沢君が威勢よく答えた瞬間、ガシャンと音がしました。振り向くと北沢君は不思議そうな顔で自分の手元から滑り落ち粉々になった茶碗の欠片を見ていました。
「失礼しました。ここは私が片付けますので、先生はお茶を飲んでいてください」
 北沢君が言って別の茶碗を持ち上げました。震える指からつるりとまた茶碗は逃げ出して、がしゃんと一拍前と同じ音がしました。
「……」
「……」
「失礼――」
「北沢君」
 なおも続けようとする北沢君に、私はティーカップ全滅を阻止する意味でも
「もうここは閉めてしまうので、後片付けは明日の朝にしましょう。下の喫茶室でコーヒーでも」
 そこで私は北沢君の好みを思い出して言い直しました。
「ココアでも」


 紙コップにはいったホットココアを両手で包んで、北沢君は少し落ち着いたようでした。
 営業時間が過ぎた喫茶室は明かりが半分消されているため薄暗く寂しげで、自動販売機の周りだけが妙なほどに明るく少し不気味でした。ソファに腰かけて私が買ったばかりのコーヒーをすすっていると
「先生」
 不意に真っ向から北沢君がそう呼びかけました。見つめると真剣な瞳が私を射抜いていました。
「私は今日、自分が下した判断に自信がもてません。どうかご意見をたまわりたいのです」
「わかりました。承りましょう。具体的なことをあげなくてもいいのですよ」
「では。私は今日、とある申し出を受けました。相手が望み申し出てきたことです。互いの希望が一致したので私は受けたまでですが、そのことが前途有望たる若者の未来の障害物にならないのかと心配なのです」
 コーヒーの苦味はお茶の渋みとは全く違います。
「北沢君」
「はい」
「なにがその人のためなのか、それは本当のところは私にもわかりませんが。人には回り道だとて必要なことがあります。立ち止まることも、ある時は明らかに間違っている道に進むこともあるでしょう」
 コーヒーを飲みます。
「その道へ一直線に辿り着くことがいいことでは決してない。その過程こそが愛しいのです。尊いのです」
「相手にマイナスになることではないと」
「そのような考えは落とし穴を生みます」
 北沢君はしばらく白い泡が立つココアの茶色の表面を眺め、やがてそれを一気に煽りました。空になった紙コップをくしゃりと握りつぶすと、立ち上がり私の前に来て深々と頭を下げました。
「ご指南、ありがとうございました」
 黒いコーヒーの苦味はしばらくの間、私の舌の上で残っていました。



 北沢君は浮かれています。あんなに舞い上がった北沢君を見るのは初めてです。無理もありません。妙齢の女性が好きな相手に告白されたとすればどうでしょう。私は若い頃も華やかな話題とはだいぶ遠い位置にいましたが、そのような甘酸っぱい思いというのはよく熟れたイチゴのようにその匂い香で周囲にもうすうすと感じ取れてしまうものなのです。
 けれど北沢君は、そのような一種の病と言ってもいい状態でも、その慎重さ、考え深き利点を決して見失いはしませんでした。そのような姿を見るにつけ、私は考え込んでしまいます。決してそんな気はなくとも、あの話を北沢君にしたところで北沢君はもしかしたら傷つかないのかもしれません。なるほどと至極納得して終わるのかもしれません。どうしたことでしょう。
 私は机の奥にしまっている写真たてを取り出しました。古いそれです。今のような綺麗なカラーではなく、白黒の写真です。もうネガも残っていないので、私にとっては大切な一枚です。ゆっくり眺めて写真の中の人物と一緒にお茶を飲み語らいました。
 懐かしい話し相手の彼ならば、このように悩まずにずばりと問題を解決したのかもしれません。でもこの世には、周りの全てを飛び越しくぐりぬけてまで目的地に一直線に進むもの、目的地と自分の間にある色々な障害物にうろうろと迷って迷って進んでいくもの、きっと二種類の人間がいてそして私は後者なのでしょう。
 私はため息をつくと、そこでふと内線の電話がなりました。受け取ると事務の方からの呼び出しです。さては何か不首尾があったのかと聞く前に切れてしまい、私は上着を手にとって部屋を出ました。誰が来てもいいように、鍵と暖房はつけたままにしておきました。
 私がうっかり写真たてを机の上に置いたままにしていたことを思い出したのは、事務室についた後です。階段を下りている最中に、はたりとそれに気づき、気が騒ぎましたが離れているのはたいした時間ではないと思い直しました。
 けれど事務での用件が思いの他長くなってしまい、時計に目を走らせるとすでに部屋を出て四十分を過ぎていました。私が小走りで廊下を歩き研究室に戻ると誰かが中にいるような気配がしました。私は急いてノックもせずにドアノブをがちゃりと回すと、談笑の場のソファに腰かけ、その右肩にぐっすりと眠る北沢君の頭を乗せている仲井君とばっちりと目が合いました。
 瞬間、夕暮れ時の空のよう、仲井君の顔に朱がさしました。
「せ、せんせい。違うんです。こ、これは、その、あの」
 私はしいとたてた人差し指を口元に持ってくることで合図をして、
「北沢君が起きてしまいますよ。最近課題の資料集めであまり寝てないらしいですから」
 それにハッとしたように仲井君が口を噤みます。それからなるだけ彼女がもたれた肩を揺らさないように気をつかいながら、まだ赤い顔で
「そのですね、最初からこうだったのではなく、もちろんこうしようとしたわけじゃなくて、僕がくるともう佳代さんはソファに座って寝ていたんですよ。となりに腰かけたら、その、佳代さんが滑ってふわって動いてこんな体勢になってしまったわけで」
 仲井君が起こすのは忍びないと思うのが分かるほど、北沢君は安らかに深く寝入っています。眼鏡をかけたままのところ、北沢君も初めから寝るつもりはなかったようです。私は気になって失礼、というと棚で区切られて見えない自分の席まで戻ってみました。私が慌しく出て行った時と何一つ変わらないように見えます。脇に置かれた飲みかけのお茶、机の端には読みかけのハードカバーの本が四、五冊しおりを突き刺されて詰まれています。
 写真立ては机の真中にうつぶせになって置かれていました。
 私はそれを手に取りまじまじと見た後、身を乗り出してソファの方をのぞきました。仲井君が自分の肩にもたれて眠る北沢君をじって見ているのに気付きました。私が脇から出て行くと、ハッとしてまた赤い顔で私を見ました。まるで少年のようです。
 私は何か微笑ましくなり笑いかけました。仲井君はまた落ち着きなく唯一自由になる首をめぐらして、やはり北沢君を見ました。その素振りに私は仲井君が北沢君を見ていたのだと遅くばせながら気付きました。
 仲井君どこか憧れるように目を細めてそれからどこか切なげな横顔で北沢君を眺めます。北沢君はその肩に可愛らしくちょっと頭の端をのせて寝入っています。その様は恋人同士というよりかはまるで。
 ――。
 私が少し言葉を失い、自らのそれを反復させる間も、仲井君は北沢君を見て今度は少し悩ましげな顔をしました。
「佳代さんは、すごく綺麗ですね」
 仲井君の言う「綺麗」は、美人であるというようなものではなく、なんと言いますか、青空を見て綺麗だ、とか、深い森林を見て綺麗だ、とかそんなときに使う表現のように聞こえました。
「まっすぐで、真摯で、僕みたいなのは恥ずかしくなるくらい」
 私はそんな風にぽつりと呟く仲井君を見ながら、廊下に繋がるドアに向かい、ノブの真ん中についた鍵をひねりました。カチャリ、と引っかかる小さな音がします。私はこちらを見ている仲井君に共犯者として微笑みかけて
「今日は、締め切りです。北沢君をゆっくり寝かせておきましょう」
 では私は向こうへ行っていますので、と言い残して私は本棚の向こうの自分の机に戻り、机の上に置かれた写真立てを手に取り少し見てから、慎重に引きだしの奥底にしまいこみました。それからレポートの採点にかかりました。
 しばらく全ての意識を手元のレポートに集中させ、三十人分のレポートをし終わり、最後に北沢君のものになりました。北沢君のものは特に力作で分量だけとってみても普通の生徒の軽く十倍はあります。量が多ければよいというものでもありませんが、彼女の論法はいつも鋭く緻密な調査根拠に基づいて紡がれて自らの案に振り回され惑わされることのない、極めてしっかりとした完成度の高いものにしあがっています。
 私は満足してレポートの表紙に赤ペンで花丸をかきあげ、三行ほどコメントを書き添えました。
 それまで私はレポートに夢中になっていたのでしょう。ふと、後ろに二人がいることをぽんと手をあわせるように唐突に思い出しました。
「仲井君?」
 と小さく呼びかけてみましたが、反応がないので私は席をたってちらりと見てみました。ソファの上で先ほどと同じように彼の肩に頭をのせてすっかり寝入っている北沢君と、いつの間にやらただ座っているうちに眠くなってしまったのか、ソファの角に頭をのせて仲井君も寝入っていました。おやおやと思い私は泊まり用の毛布をもってきました。
 近くに行くと二人はまるで両親を待ち、待ちくたびれて眠った兄弟のようでした。健やかな寝顔がよく似ています。育児室のケース中で眠っている赤ん坊は全て同じに見えるよう、全てが等しく愛しいように。
 私はふっと我知らず微笑んでいました。そして毛布を二人の膝にそっとかけてしのび足で後ろへと下がりました。
 私は若い方がすきです。溢れんばかりのエネルギーがあって、生き生きとして、日々を謳歌しているからです。
 そしてふと見せるこんな幼さが、たまらなく愛しく尊いものだと考えているからです。


 そんな二人の様子を見た後は私はあまり心配をしなくなりました。私のようなものが考えこねて物事をかき回さずとも、水は高いところから低いところへと流れるものです。収まるものは収まるべきところに収まるものです。
 案の定、若さは荒れ狂って荒れ狂って結局のところ落ち着いたものです。それも収まるべきところに、と言えばそうで。
 婚約とは気が早いですね、と話をきいた他の教官の方々に口々と言われましたが、私に言わせればのんびりしすぎているほどです。まあ、そのような制度の問題ではないと思うのですが。
 北沢君はとても綺麗になりました。仲井君の方はこんなことを言うと少し申し訳ない気がしますが、少し軽くちょっとばかり浮ついたような感じになりました。
 以前、どなたかが(多分、女性であったと思います)こう仰ったことがあります。恋する女性は綺麗になるが、恋する男性は無様になると。もちろんいささか乱暴な断定なので諸手をあげて賛成するわけではありませんが、北沢君と仲井君を見ていると、北沢君は婚約の件で骨がある、というか一本芯がしゃんと通ったようで、仲井君は逆に何本か支柱の骨を抜かれてしまったような、……失礼。
 それでも二人合わせれば 骨の数にはきっと違いはないのでしょう。そんな風にして私の性分からくる一つの勝手な心配ごとは終わりました。私の大好きな大学という場所の、端を担わせていただく身として、定年間際で心残りがないように、と私は少々気を張っていたのかもしれません。
 ほう、と一息をついて幾日かたったある日、ふと研究室のドアが二、三回のせっかちなノックと共に開いて、お隣の田中ゼミの学生上城昴君が顔を出して、手前のゼミ室のソファを素早く視線で撫でました。
 あいにくとその時は私一人で、昴くんは私を見ると、少しバツが悪そうな顔をしました。
「どなたか、探していられるのですか?」
「……いや。なんでもないデス」
 昴君は何か言いかけて口を開きかけ、そこで思いなおしたように首を横に振ると、ちょっと失礼シマスと独特な発音の言葉で、中に入ってきてソファに座り込みました。
 上城昴君は、流行というのでしょうか。カラフルな髪をした生徒で、私が古い人間だからでしょうか。背後から見るとついつい外国の方かと思ってしまうことがよくあります。実際に大学という場所は留学生の数も決して少なくはないところですから。
「上城君はコーヒーでしたか」
「ああ、ミルクだけで。砂糖いらねーです」
 卒業生からのプレゼントでいただきました、いつでも温かいコーヒーがいただける、コーヒーポットの上をとって、これまたいただきものの白いコーヒーカップに白い湯気をたてる黒いコーヒーを注ぎました。コーヒーの細い線が空に孤をかくとき、それは琥珀のように光沢のある茶色がのぞきます。こういう一瞬が綺麗だと思います。
 注いだコーヒーカップを持って、上城君を見やると上城君は、ソファの背もたれに背を投げて、反り返るようして天井の蛍光灯付近を眩しそうに眺めていました。その表情が少しだけ不機嫌そうにも見えました。
 上城君はいつも楽しげで生や若さを存分に謳歌している微笑ましい学生ですが、悩み事でしょうか。
 上城君の前にコーヒーカップを差し出すと、彼はちらりと私の方を見て、億劫そうにのろのろと背もたれから身を起こし、コーヒーカップの縁を親指とひとさし指でつまみあげると
「どーも」
 と言ってすすりました。次の瞬間、アチ、と小さく声を出して、慌てて自分から遠ざけるようにコーヒーカップを前の方のテーブルに置き、舌を出しました。私は慌てて引き返して透明なコップに水を汲んできました。
 上城君もそれを受け取って、飲み込むわけでもなくしばらく縁に口をつけていました。
「すみません。」
 私が謝ると、唇をまだコップの縁につけたまま、上城君は自分が遠ざけたコーヒーカップをちらりと見ました。まだ、湯気があがっています。上城君はいつでもすぐに口をつけられるように水のコップを口の近くに持ったまま
「夏樹の奴ね、あれに砂糖どばどばいれんすよ」
 私は一瞬、はて誰だろうと思い、そして思い出しました。
「ああ。早川さんですね」
「牛乳も色が変わるまでどばどば。それじゃあコーヒーじゃなくてコーヒー牛乳だっての、っていってんのに、いつまでたってもそういうのみ方ばっかで。それであいつ、コーヒー好きだってぬかすんだから。」
「人には色々なのみ方がありますからね。私の昔の友人も、コーヒーは底が見えるくらい薄くなくちゃ、と主張してミネラルウォーターで何倍も薄めて、これでいいと言って飲むのですよ」
「夏樹はあれですよ。出所はばれてるっての。あいつ、小学生の頃、兄貴どもにたいして意地張ってコーヒー飲もうとしたんですよ。でもうまそうにみえねえし、ちょっと舐めたら苦いしで、砂糖とミルクをどばどば大量投入。それで飲んだら気に入った。コーヒーがうめえ、と思えたのが、っても錯覚ですが、よっぽど嬉しかったらしいんで」
「食べ物や飲み物はとても顕著に記憶と結びつきますからね。何かが苦手だ、という方はそのことにたいして嫌な思い出があることがびっくりするほど多いらしいですよ」
「あー……」
 うろんげに上城君は呟いて水の入ったコップに口をまたつけました。まるで舐めるように舌をだして表面を冷やしています。やはり火傷してしまったでしょうか。
「あいつ、前、この部屋に来てましたよね」
「ええ」
 その答えが苛立たしかったのか、上城君は不機嫌そうに前髪をかきあげ
「ったく、健一の何がいいってんだか」
「仲井君ですか」
「ったく。」
 上城君はもう一度舌打ちしました。私はなんとなく言う言葉がなくて、当り障りのない
「上城君は早川さんと昔から知り合いなんですか?」
「あいつの二番目の兄貴と腐れ縁だったんですよ。ガキの頃からしょっちゅう家に遊びに行ってて。家も近かったし」
「幼なじみなんですね」
 その言葉に上城君は少し考えて、やがて気のなさそうに「そーですね」と言いました。あまり詮索はよくないと思いますが、上城君の態度や言葉を聞いていると、そういうことなのでしょうか。
 私の視線から何か読み取ってしまったのでしょうか。上城君はふと私をまじまじと見て「勘違いしないでくださいよ」と言いました。
 そんなに顔に出ていたのかと私は少し恥ずかしさを覚えて、北沢君と仲居君のことがあったばかりですし、自分のこの勝手に人のことを詮索してしつこく悩んだり考えたりする癖はやめておこう、と考えたとき、ふと上城君がソファの後ろに片手をなげて私に真っ直ぐに向かい合い言いました。
「あいつが好きになるのは俺に決まってんですよ」
「はあ…」
 思わず間の抜けた返事をしてしまいましたが、上城君はさも当然のことのようにかまえています。それからいやだいやだ、という風にコップをテーブルにおいて、両手をソファの背もたれの後ろに投げ出すと、またさっきのようにふんぞりかえって
「なのに健一って。女ってのはどーしてああ見る目がないのか」
「仲井君はなかなか女性に人気がありますよ」
「他の女ならそうかもしんないけど、あいつは違うでしょ」
「そうなんですか?」
 同意を求める上城君の言葉に、けれど同意できるほど私は早川さんを知らないので尋ねると、上城君は別に不快になった様子でもなく
「あいつがガキの頃、俺もまあガキで。あいつ、今も充分チビだったけど、もっとチビで。ほら、ガキってそういうやつ見るとちょっかいかけるもんじゃないですか」
「はい」
「ま、かけました。ちびだミニラだって。中でも一番言ったのが、この先お前ずっとちびのままだー、って感じのからかいで。あれ言うとほんと、あいつ滅茶苦茶怒ってどこまでもついて走って追いかけてきたんで、そういう反応が一番面白いじゃないですか。絶対でかくなって見返してやるって言うから無理だお前はずっとちびのままで俺にずっとからかわれ続けるんだ、って。このやりとり、千回はやったかな。そのうち俺が中学に入って、でも通学路とか一緒なんで特になんも変わらないで。高校入ってもそんなに変わらないで。で、俺が中三になったらあいつも中一になるし、俺が高校入って三年になったら、あいつも高校はいってくるしで。そうすっと、まー、でかくなるじゃないですか、誰だって」
「はい、中学の頃から第二次成長期に入りますからね」
「そ。みんな伸びましたよ、そりゃ。だけどあいつだけでかくなんないんですよね。チビのまま。高一くらいの頃かな、ふっと思ったんですよ。こいつ、もしかしてでかくなんないのかな、って。そんときはまさかな、もうちっとは伸びるだろって思ったんですけど、いつまでたってもほとんど小学生のまんまで」
 そこでふと、怒涛のように並べていた上城君は言葉をきり、少しだけ遠い目をしました。
「そんで、高三くらいの頃にようやく俺も悟ったんですよ。ああ、こいつはでかくなんないんだな、って。俺が言った通りにでかくなんない気だな、って。でこいつが小さいままなら、俺も言ったことは撤回できない、って。――だから、あいつが好きになるのは俺なんですよ」
 上城君が告げた言葉はとても複雑なようでいて、明白なようにも思えます。そうですね、ちょうどごちゃごちゃからまっているようには見えますが、ぴんっと左右から紐を引っ張ればぴんっと一本の線になる手品のように。
 上城君の話は終わりました。そこでソファの後ろから一本手を引き抜くと、テーブルの中央の方へと遠ざけていたコーヒーカップに手を伸ばして、おそらくすっかり冷めているでしょうそれをつまらなげに飲みました。
 私は何か言ったらいいのかな、と考えました。こういう話をする人は助言を求めているようでいて、それは実は違う場合が多いのです。人は相談という形をとりながら、自分の話をただ口を挟まずに聞いて欲しいだけの場合があるのです。私もその心理は分かる気がします。
 自分の思いを言葉にして口に出すという行為は、たとえそれをずっと抱えてきた人でも思わぬ発見をするときがあります。自分の口から出て聞いて、そこで初めてああ自分はこんなことを思っていたのか、と納得したり、自分で口に出しながらそれはちょっと違うのかもしれない、と思い直したり。
 なにもなくても声に出して誰かに聞かせるために、考えを少し整理して形にすると、思いのほかすっきりとする作用もあるようです。
 そんなことを考えていると上城君が私を見ているのに気づきました。上城君には助言はいらないのかもしれません。感想もいらないのかもしれません。私は上城君がどうでもいいようなことを言って欲しがっているような気がして、特に辺りさわりのない年長者が若者によく言うようなことを選びました。
「たとえ答えは一つしかなくとも、そこに辿り着くには、色々と道がありますし、途中にちょっと大きな広場があったとき、ここがゴールかな、と錯覚してしまうことは多いのではないでしょうか。誰も人生に地図は持っていないものですし。」
 お気に召したのでしょうか、上城君は私の言った言葉に、ちょっとこちらを見つめた後、ぶっと噴き出して笑いだしました。
「人生の、ちずぅー!? はははは、センセー、くっさー。金八並金八並」
「キンパチ……ですか。」
「武田鉄矢のあれですよ、三年B組、金八先生!」
「ああ、あれなら昔見ていましたよ。上城君も好きなのですか?」
「いや、見たことねえっすけど」
 そう言って上城君はけらけら笑いつづけました。上城君は普段は多くの人を周りに集めている、どこか人好きがする若者ですが、その笑い方を見ているとなんだかその訳がわかったような気がします。
 自分を好きになるに決まっている、といういささか強引なことを公言したり思ったことをずばずば言っても不思議と嫌味がない、この屈託のなさが良くも悪くも人をひきつけるのでしょう。
「いいことって大抵くっさいことですよねー」
「そうですね、臭うことなのかもしれません」
 相槌をうったあと、ふと、これは彼なりのお世辞なのかもしれない、と思いました。とりあえず私の拙い言葉をいいこと、と言ってくれたようですし。
 そうして、上城君と私の会話は終わったようでした。正直な話、あまり有益なことはしていないような気もしますが、それから後、上城君はコーヒーをおかわりして、少しはいつもの明るい調子を取り戻したように私の研究室を去っていきました。
 それから後、廊下でよく早川君が怒鳴る声と、上城君が楽しげにからかっている様子を何度も目にしました。どちらも元気そうで二人の姿を目にすると、なんだかほっとしたような気分になりました。






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