俺、早川夏樹の腐れ縁の相手、上城昴の所属する高橋ゼミの研究室の在り処は、本館二階の階段を登った先を右に曲がって突き当たり、その更に右端の一番奥にひっそりと存在する健一先輩が所属する鈴木ゼミの教室のお隣だった。
 そんな縁もあってなのか単に顔をよくあわせやすいせいなのか、両教室の生徒達はそれなりに仲が良いようで、なにかあるたびになにもなくても、結構気軽に互いの研究室を行き来していて交流も盛んだったようだ。
 例に寄ってふらふらと鈴木先生ゼミの辺りを彷徨っていた俺を、高橋ゼミに所属している昴が見つけて辞退するところを有無を言わせずなんだか得意げにゼミ室に引きこんだのは水曜の昼の休み。
 一週間の真ん中ということもあってか、皆がゆっくりと大学に腰を落ち着ける時期なのだから、なのにだからかは知らないけれど、ゼミ室の住人はバカ昴だけではなく、女の子達が黒色のソファに所狭しと浅く腰掛けて、なんだかやたらと殺気だった感じでひきりなしに並んで座る互いと顔をつきあわせて熱がこもって喋っていた。
 そんな立て込み中のゼミ室に、まだゼミに所属していない一人だけ一年生の俺に居場所などあるはずもなく、隅でやたら見落とされがちなちまっとした身体をさらに小さくして出された緑茶をちびちびとすすって間を誤魔化していた。お茶請けのクッキーは机の真ん中にあって少しとりづらいので、なんとかこの茶をゆっくり飲んで時間稼ぎだ。
 なるべく無心になろうと勤めながらも、なんでこんなつまらないことで神経をすり減らさねばならないんだろう、と鬱々とした気分は抑えられない。
 このゼミ室にいても意味がないんだ。無意識の俺の目当てはこの中には何もない。
 目標を妨害してくれたばかりかこんな気まずい場に引き込んでくれた昴を呪っていると、ふときゃあきゃあとぎゃあぎゃあの中間辺りのトーンで喋っていた彼女達の一人が突然憤然として
「もう信じらんない! 仲井君が北沢さんと付き合うなんて!」
 と叫んだ言葉に両掌で抱えていた陶器の茶碗がつるりと滑り、中で明るい黄緑色の波が大きく生まれて、取り落とすことは免れたが二、三滴床にこぼれてしまった。程よくクーラーが効いていた部屋なのに手の内がじっとりと汗をかいていて、パーカーにこすりつけて茶碗を持ち直した。
 納得がいかないというように女の子達は騒ぎ続ける。俺は手の中の波立つ茶碗を落とさないように両手で掴むのに意識を集中させて、時たま手のかすかな震えが止まらなくなるのをまたパーカーにこすりつけて抑えていると、ふと、昴の得意げで軽薄で調子に乗ったピノキオの鼻みたいに叩き折ってやりたいいつでもろくでもないことが飛び出すに決まっている声が響いた。
「ところがそれには裏があるんだな」
 ぴたっと女の子達が止まって、俺も茶碗の波立つ明るい草色から顔をあげて昴を見た。声とそっくり同じ顔。
「実は寮でけっこー真剣な賭けしたゲームやってさー」
 たらたらとゼミ室の上を茶碗からあがる湯気と供に言葉が彷徨う。
 怒りでびくびくと痙攣する腕で茶碗を支えながら、人を本気で絞め殺してやりたい、と生まれて初めて俺は思った。


 仲井健一という人は、女性徒に大変人気のある相手だった。
 って言っても俺もそうゴシップに詳しい方ではないが、聞いたところで二、三人。隠れて好きな子が後何人も潜んでいると、はっきりしないが言われてる。多分潜んでいるのだと思う。俺もそうだから。
 チビで幼児体型で中学一年生くらいから憎らしい身長が伸びることをやめてしまったような身体に、しつこくくるくるとどうしても回りたいらしい頑固な癖毛は、触れれば手に絡みつくような弾力があってその髪の硬さはまさに犬の毛そのもの。
 そんな要因が重なって大抵決まって愛玩動物、或いは愛玩物扱いをされる外見でも、男ばかりがまみれた家でただ一人の女という境遇で育ったせいで、口調は一見の人間には顔をしかめられるほど汚くて中身はくそがきと形容される俺にとっては、どうすっころんでも届くわけない相手だ。
 優しげで上品に整った顔立ちで物腰も柔らかい、うちの馬鹿兄貴と弟達の暑苦しいうっとうしい男臭さなど微塵も感じさせない石鹸の香りがするような清潔さと、昴のようないい加減で軽薄でにやけるその顔が別の胸糞悪さをも感じない朝の山の空気のような気持ちの良さ、健一先輩との遭遇は俺にとっては世の中にこんな男がいたのかと開眼させられたショッキングな出来事だった。
 まさかこの俺が廊下ですれ違いざまや偶然教室で会った時に軽く笑って手を振り挨拶されるだけで、友達と談笑しながら歩いていく先輩の姿を遠くから目にしただけで、なんと言っていいか分からないがカッと胸が熱くなって知らずに血の気が登ってしまう、言い換えればのぼせてしまうなんて日がくるなんて変な冗談みたいだ。
 それだけでも相当に病気に近いと青ざめていたのに、なんとそれだけで留まらずに、無意識に用もないのに健一先輩の所属しているゼミであり、そして同時によくいる二階のゼミ室の辺りを特にうろうろと用事もなく彷徨っている自分に気付いた時は、これじゃあストーカーだと呆然とした。
 言葉遣いが乱暴だからよく誤解されるが、俺は別に硬派を気取っているわけじゃない。男にこびうる女なんてふんふんふんと反発で突っぱねた思いもないが、どう考えても柄じゃないだろ、と一人あたふたと狼狽した。
 だけれど早々に浮かれる夢は冷水を浴びたように覚める、無理だ無理だと言いきかせながらそれでも確実に浮かれていたように、覚めたときの殴られたような衝撃は忘れられるものではない。
 前々から付き合っていた彼女と、健一先輩が婚約したのだ。
 受験の重圧から解放されて新しい生活の中ではやたらに皆はパートナーを欲しがるのか、まだまだやれすぐくっついたと思いきやすぐ別れたと軽い付き合いが横行する学校の中でその重みは格が違った。
 すでにただ単に他の人達と同じように付き合っているうちから、なにかと噂にのぼりがちだったうちの学部の名物カップルの行く末がそれなのだから、その報が張り倒されるような勢いで関係者の間を駆け巡りセンセーショナルだと叫ばれるのも無理はない。
 通りかかった廊下で友達にとり囲まれて冷やかされながら、それでも冷やかしに特に反発することなく幸せそうに笑ってる健一先輩を見た。
 今日の俺は、一週間の中でもっとも嫌な講義は休講で、他の講義の課題も今のところなく外は燦々とやたらに明るく天気は良くてこれで特にやらなきゃいけないこともない身で午後までの休み、開放感に満ちていると誰だって思う。
 だけれど俺は開放感からは程遠く、家にいるのも嫌でこうして講義もないのに大学にいる。角を曲がった先に、昴がいた。
 明るい茶色の髪、あけた耳たぶのピアス、絶対こいつは床屋じゃなくて美容院に行ってると確信できる髪型。年は二つ違うが、家が近くて兄貴の同級生だからよく知ってる。使いたくはないが幼なじみという枠に当てはまると思う。
 ちょっと物心ついた時から俺は軽薄でいい加減でちゃらちゃらと女と遊んでいることしかしないようなこいつが大嫌いだった。この大学を受けるときもこいつがいるって理由が、最悪のネックだった。昴さえいなければいい大学だ。昴さえなければ後は小さな不満だけで概ね満足できる。
 昴は馴れ馴れしく歩を詰めてきて――と言っても昴は誰にでも馴れ馴れしいが――
「よ、夏樹。どした? 湿気た面して」
 ぽんぽんと頭の後ろ辺りを遠慮なく叩くのでトンカチで打たれる釘のように自然と顔は俯いた形に押されていく。
「あ、この手ごたえ……お前さてはまた身長縮んだろ。やべえな。ついに小学生から幼稚園逆走コースか」
 肩が震えてきた。見つめた廊下のクリーム色の床がぼやけてきた。震えるほどの怒りに涙が滲み、こんな奴の言葉で泣くこと自体がもっと悔しかった。
 そのまま顔をあげるとさすがに泣くとは思っていなかったのか、ぎょっとしたその顔に瞬間滅茶苦茶怒りが沸きあがって両手でぶんと右肩に引っ掛けていたリュックを振り回した。
「全部ってめえのせいだ馬鹿野郎っ!!!」
 確かな手ごたえがあった。


 昴のゼミの女三人組は何も全員が健一先輩を、というわけではないらしかった。
 何度か連れ込まれているうちに気付いたが、健一先輩を好きなのはいつも真ん中に座り一番言葉数少ない黒髪の目がぱっちりとした色白で顔が小さな可愛い子で、それを囲むようにして座る両隣の二人が何かと彼女の恋路が上手くいくようにもり立てているという構図だった。
 健一先輩が北沢先輩と付き合いだしたから、俺のただでさえ少なかった希望は極少にまで縮んだが、あんな馬鹿昴の(結果的な)橋渡しで結ばれた関係だったから、ゼミのその三人の女の子達は二人が絶対にすぐ別れると大前提で頑なに信じていた。
 昴の話に一変に機嫌を直し、真ん中の女の子に良かったね、そんなのじゃすぐ別れるよ、ともり立ててやがて北沢さんかわいそう、とくすくす笑い出していた。
 女はこういうところが少し嫌かもしれない。でも自分の中にも別れることを望む気持ちが切にあった。口に出すか出さないかだけで醜さに違いはあるんだろうか。
 彼女がやってくると、自分が知っていることを相手が知らないということへの優越感を瞳にひらめかす女の子達も何も変わらないままに一ヶ月たって二ヶ月たって三ヶ月たつと段々、そこから余裕が消えていった。仲井君ってちょっと優しすぎ、と腐っていた彼女達は今頃何を言っているんだろうか。昴のゼミ室にいるのかな。
 少し前、最後にそのゼミ室にいた時にあったことを思い出す。
 目に見えて健一先輩が痩せて元気がなくなって目の下に大きな隈を作って憔悴していた時期で、廊下で会った俺が狼狽してどうしたんですか、と聞いても笑って誤魔化すだけで、例によって昴に用もないのに引きずり込まれた研究室で、それまで少し下火になっていた彼女達の会話にも再び勢いが戻っていた。
 あの仲井君、見た? 見た見た。あれ、尋常じゃないよ。絶対北沢さんのせいだって、とよくよく聞いてみれば全然整合性がない話だけれど、思いこんでしまえば仕方ない。
 ひとしきり喋っている両隣の二人とは違い、あの真ん中の子はじっと手を組んでいて長らく話に参加しなかったが、やがて彼女達がほっと息をついた隙間に何かを思いつめたような頑なな顔で口を開いた。
「私、北沢さんに言ってきたんだ。あなたに無理に付き合わされてるから、仲井先輩はあんなに疲れてしまっているんです。別れてください、って。」
 その言葉に両隣の二人はざわめき立ち、俺は彼女を見た。視線の位置が本気さを物語っている。
 大人しそうな女の子なのにあの彼女に一人で直談判を行ったというのだから、基本的に彼女らの話は放っている昴もちょっと面食らったような顔を見せた。
 それで北沢さん、なんて言ったの、と勢い込んで右隣の子が尋ねるとその子は硬い顔をしたまま、北沢さんは分かった、って言ったわ、と言った。
 それを聞いたとき、反射的に痛みを感じたように目を閉じた。瞼の裏に広がる暗闇の中で自分が重い重い塊を飲み込んだような気がした。
 二人が婚約したのはその後すぐだった。


 服も着替えず飯も喰わず風呂にも入らずにただベッドに直行して夕方から寝た。体内時計を無視してそんな時間に寝たもんだから、時間がない世界からふと妙にはっきりと真夜中に目が覚めた。
 大学に入ってから女の一人暮らしだから用心していつもは閉じているカーテンを開きっぱなしにしていて、妙に部屋の中が冴え冴えとして蒼白かった。自分の影が見える夜ってのはこういうのだろう。
 頭は冴えていて感情は死滅していたようだった。大学に入りたての頃、別に地元の大学というわけでもないので友達もまだできなくてたった一人の知り合いの昴に廊下でからかわれていた。
 女連れでちゃらちゃらと歩いていた奴の無礼な言葉に、俺がすっかり愛想尽かせて憤然ときびすを返して駆け出した先で、曲がり角で向こう側から歩いてきた誰かと正面衝突して鼻を打った。
 お、大丈夫か、夏樹。お前高低さで大抵の人間の視線外にいるんだから気をつけろよ、とこの期に及んでぬかした昴に腹が立って腹が立って怒らせた肩はふと両手に包まれて止められた。
 ごめん、と心配そうな声が間近でした。頭の上から拳骨をくらって縮んだようなチビの俺には、目の前の相手が廊下に膝をつかんばかりに屈んでいることが分かった。白い綺麗な、間近に寄せられても全然嫌悪感がない顔だった。
「ちょっと鼻が赤い。痛くない?」
 髪に優しく手が差し込まれて撫でた後、急に優しげな顔があげられてきっとなった。
「おい昴、どういうつもりだ」
「どうって……なんだよ」
 ちょっと面食らったような昴の声が後ろから聞こえたが気にならない。高い位置にあるその顔を見上げる。
 不意にぎゅっと抱き寄せられて鼻先が服に触れてなんの余計な匂いもつかないただシャツの匂いがした。上から張りのいいちょっと独特の声がする。
「こんな小さな子ども苛めて楽しいのか」
 毅然とした言葉が一拍静寂を連れてきて、その後すぐに昴の爆笑が大きく響いた。シャツの匂いがする。昴の笑い声に、何がおかしいんだよ、とうろたえるこの人の声。
 この声とシャツとシャツの匂いと頭に置かれた少し骨ばった指をした手。
 昴の馬鹿笑いは聞こえていても届いていなかった。大嫌いな子どもに間違われても、子ども扱いされたことも昴にこれからからかわれるネタがも一つ増えてしまったことも、全然気にならなかった。この人が目の前にいるから、その全てがどうでも良かった。
 仲井健一。こんなに他人の名前が自分の中で意味を持ったことはなかった。
 その後俺の年を知って青ざめた健一先輩はインパクトの強さと逆に遠目には目立つチビさに次の日から気付けば必ず声をかけてくれるようになった。
 健一先輩は俺の人生の中にそれまでいなかった紳士だから、優しくて親切でよく気がついてどんな女でも健一先輩といれば自分がお姫様にでもなったような気がする。
 健一先輩といると女でもまあ悪くないや、と思えるところが好きだった。姿を見かけるだけでぽーとなる好きな相手なはずなのに話しているとそのうち楽に息ができて肩の力も抜けるようになる紡ぐ自然な空気が好きだった、昴相手に怒鳴り散らした俺の口調に一人ぎょっとした様子もなく笑った健一先輩が、やっぱり、好きだ。
 俺にも、ゼミ室の黒髪のあの子にも好かれてしまっても無理はない。きっとあの人だって。
 雲が動いたのか布団をかけた胸の辺りにたゆたっていた明かりがすうっと動いた。
 そこで初めてそれまでずっとずっと霞のように遠ざけて目をそらしていたその存在を直視した。
 あの人、先輩の彼女、俺達と一緒に先輩を好いてる人、俺達と違って先輩にも好かれている人。北沢佳代さん。
 別れてくれ、と言った黒髪のあの子は汚いのかもしれない醜いのかもしれない。俺はしれないではなくただ醜い。
 そしてあの黒髪の子の言葉に、分かったと言った北沢佳代さんは
 とても綺麗だ

 悲しくなった


 自分自身がこうまで未練がましいとは思っても見なかった。目元がガビガビで目が覚めた。目が覚めてから大学に行こう、と思った。普通なら行きたくないって言うんだろうけど、なぜかベッドの上で開けっ放しのカーテンから差し込んでくる光で明るい部屋の中で行こうとぽつりと思った。
 外に出て行くと今日も日差しが熱を持っているとはっきり感じられるほどのいい天気ではふと一つため息を吐き出した。この仕種にも昨日から慣れきっていた。
 大学構内は二コマの半ばだろうか、人気が少ない廊下を通って、二階の鈴木先生ゼミ室の前に行きとんとんとドアを叩く。どうぞ、とドア越しに少し小さめの鈴木先生の声がした。でも入らずにとんとんとドアを叩く。どうぞ、入ってください、と先生の声。
 三回目のノックの後で、ガチャリとドアが開いた。鈴木先生が顔を出して一瞬その視点は俺の上空を彷徨い、ふと気付いて下降する。
「早川さん」
 どうしましたか、と軽い毛布に包まれるような、愛想笑いと違う本当の笑顔で言われたのでつられてちょっと口の端だけで笑った。
「仲井先輩、いますか?」
「仲井君はですね、先程までいたんですがちょっと人に呼ばれまして出ていますよ」
「その人って、北沢さん、ですか?」
 空気が静止するというんだろうか。その言葉に鈴木先生は一瞬止まってまじまじと俺を見下ろした。小さく笑うとふさあとちょっと皺の寄った掌が頭に降りて軽く跳ねるようになぜる。
「北沢君では、ないですよ」
「……そうですか」
 ふと、隣のゼミ室のノブが廻るガチャリと無遠慮な音がして、続いて「あれ?」とやたらと場違いな声が響く。
「せんせー、ダメっすよ。そいつ小学一年生に見えても大学一年生だからセクハラになりますよー」
 けらけら笑って昴が近寄ってくる。俺の頭から手がゆっくりと離れたので、俺は先生に向かってぺこりと頭を下げた。
「失礼しました」
 というときびすを返した。すると後ろで先生が
「早川さん」
 足はとめたけれど、振り向きはしなかった。
「早川さん」
 先生は俺を呼んだだけで話はなかったけれど。その声の調子に何が言いたいか分かってしまう。
「……はい」
 と答えて誰もいない前方に頭をさげた。視界に前髪が少しかかる。それから歩き出すと、ばたばたと音をさせて昴が横に追いついてきて、くいと顎でしゃくる。
「なんだよ、あれ」
 こいつくらい鈍ければ感じる痛みも少ないだろうな、と思い
「健一先輩探してる」
「健一? 朝会ったけどゼミ室にいなかったのか?」
 歩いていくと、廊下の端の教室から答えが聞こえてきた。
 その教室の前のドアまで歩いていって、今はこの階の教室のどれも授業がしてないはずなのに声が聞こえる教室を開いたドアからのぞきこむと、百人単位で聞けるような大講堂ではなくこじんまりとした教室の教壇の端、黒いカーテンが束ねられた窓の傍で二人の人間が立っていて、その内の一人が捜していた健一先輩だった。
 変に高くはねあがってかと思うと息だけになって、何かがほつれるような特有の掠れた声が間断なく流れる。そこから発生した霧のようにその教室には一種独特の、立ち入り禁止の湿っぽい空気が立ち込めていた。
 両手で顔を押さえた黒髪の女の子が先輩の前で泣いていて、先輩は困りきった顔で彼女を見下ろしている。
「どうして、ですか。私だって、私だって、ずっと健一先輩が好きだったのに……っ!」
 横で一緒に見ていた昴が「うわど修羅場」と小さく呟いて、その声に健一先輩はこちらに気付いた。困った顔が非常にバツの悪そうなそれになったが、さすがに目の前の女の子を放って置く訳にもいかないのか、視線を戻して
「そのね、気持ちは……嬉しいんだけど……」
 本当に、嬉しい?
 先輩の声を聞いてぼんやりと思う。
 だったら俺が好きだって言ってもそれでも少しでも嬉しいと思ってくれるのかな。
 俺と昴の存在には、気付いていない女の子は突然ばっと顔をあげた。目の端の涙が空に散る。泣き濡れて赤い目をしたその顔は、昴のゼミ室にいたあの真ん中の子だった。黒髪の女の子がどんっと歩を詰めてぶつかるように健一先輩に抱きついた。胸に黒いもやが沸く。
 触るな。
 その人に、触るな。触るな。その人は。そのヒトは。
 俺の声は声にならないから、女の子は構わない。抱きついて間近で見上げて涙がきらきらと輝く目で
「あの人が先輩の彼女だなんて――私っ、納得できませんっ!!」
「それは私も同感だな」
 俺の背後で至極落ち着いた、俺と昴の辺りにはなんとか聞こえても教室の奥までは多分届かないだろう、息で紡がれた独り言が響いて昴がひきつりの音を喉から出した。
「あのね……」
 やはりここから離れた教壇の端に立つ身にはその声が届かなかったようで、理屈ではないので理屈は通用しない相手を前に、健一先輩は参りきった顔でそれでもそれなりに場数は踏んでいるのかしごく冷静に答えている。
 抱きつかれたことにも特に動揺は見せずに、絶対に抱擁には答えまいと降参するように手をあげた先輩が新たに困った相手を説得しようと口を開きかけて、ふと何気なく目がこちらを向いて瞬間にその表情が一変し、ばっと首が廻って顔ごとこちらを向き、真っ青になった。
 俺も恐る恐る振り向いて背後を見上げる。
 俺とは相当に背丈が違う、心なしか身を引いている昴の横、清潔そうな白衣から長い足を伸ばして、静まった顔にフレームなしのめがねをかけた渦中の人、北沢佳代さんは、その場の全員の視線が自分に集まって硬直していることに気付いたようで、一つ瞬きしてからああ、と頷き
「邪魔をしたか、失礼した」
 他の人が彼女の立場で言ったなら多分それはこの上もない嫌味だったんだろうけれど、本当に文字通りの気持ちを平然とちょっと正気を疑うほどの冷静さで告げてきびすを返す、その態度にはさすがの昴も呆気にとられて軽口を叩けないようだ。
 問題は婚約者にのっぴきならない現場を見られて背を向けられた健一先輩だった。
「佳代さんっ!」
 先ほどまでの落ち着きぶりはどこに消えたのか悲鳴のように名を叫んで、向きを変えかけた身体を抱きついていた女の子が腕に力を入れて引き止める。
「行かないでくださいっ!」
「ごめんっ!」
 ほとんど見向きもせずに即答で両肩をつかみ自分からはがして駆け出す。取り残されて呆然とした彼女はやがてわあっとしゃがみ込んで泣き出した。細い肩が震えていて寒そうだった。
 けれど健一先輩はそんな彼女に一瞥もせずにドアにがっと手をかけて身を乗り出し
「佳代さんっ! 待って!」
 その言葉に去りいく白衣の彼の人は立ち止まって振り向いた。健一先輩が俺の目の前を急いで横切っていく、その拍子にふっと行ってしまうシャツの裾を何気なくつかんだ。耳に教室の後ろのドアから誰かが走り去っていく音が聞こえてた。あの子だ。あの子はもういなくなった。俺がする全部のことを奪ったあの子はもういなくなった。ぎゅっと指に力が入った。
 つまづいたように疾走する身体が揺れて健一先輩が止まり一瞬昴を見て裾を引く力の低さに気付いたように俺を見つけた。
「夏樹ちゃん」
 訳が分からないというように俺を呼ぶ声に、のろのろと顔を上げて先輩の顔を見た。それからどこかが麻痺した鈍重な頭でゆっくり考える。さあ、ついに引き止めてしまった。何を言おう?
 行かないで。納得できない。ずっと好きだったのに。
 ああ、それ全部。
 あの子に言われてしまった。もうあの子はいなくなったけど、それより先に言われてしまった。
 見上げた先輩の顔は、廊下でぶつかってその時に同じ角度で首をあげた、それと何一つ変わってなくて。そんな先輩の顔を見て精一杯にこっと笑った。
「夏樹ちゃん?」
 あの子が言わなかった台詞。あの子が言えなかった言葉。
「ご婚約、おめでとうございます。健一先輩」
 口にした瞬間、涙が出た。


 立ち尽くしたまま笑顔のままで涙を頬に這わせて、小さな身体がやがてぺこりと頭を一つさげるとすぐに身体を戻してきびすを返した。
 そのまま走り去っていく小さな後輩に、完全に事態の把握の限度を越えたのか唖然と立ち尽くす仲井健一へと、突然乱暴な手が襟元へと伸びて息が詰まるような厳しさで引き寄せる。
 いっ、と息を呑んだその先、軽薄でいつもしまらない表情を浮かべた悪友の顔がすぐ傍にあり、そして剣呑に歪んでいた。
「昴?」
「殴らせろ」
「は?」
 一瞬戸惑い、すぐさま彼は冷たい目に戻り
「嫌だよ」
「いいから殴らせろ!」
「お前に関して殴りたいのはこっちだっ!」
 理不尽な申し出にカッとしたように手を振り払い、顔を付き合わせると別方向から介入があった。
「待て。健一君。親身な友人の存在は金よりも重い。邪険に扱ってはいけない」
 その言葉に静止させられた主は唖然として
「佳代さんなんでこんな奴庇うんだよ!」
「犬でも恩は忘れないというだろう」
「いつこいつに恩を受けたよっ!」
 そこで白衣の女性はひらりと二人の間に身を挟み、完全にその背に昴を庇う形で、恋人と向かいあうと
「確かに君にとっては災難の主だったはずだが、私にとっては買ってない宝くじに当たらしてもらった相当な恩人なんだ」
「なんの話っ!?」
 心の底から話が見えないように叫んだ恋人に、まあ落ち着け、とでも言うように彼女は横を向いて双方に手をかざし
「双方の主張を円満に解決する方法がある。提案しよう」
「なんだ一体」
 まだ険を含んで聞き返す茶髪の男に、白衣の女性はくいっと立てた指で自らの動かぬ面を指し示し
「双方、私を殴れ」
 その言葉は収まりのつかない殺気と混乱に満ちた双方の動きをも止めた。その前である意味で非常に空気を読めているのか全く読めていないのか、淡々とひたすらマイペースに白衣の女性は自分の顔から眼鏡を外して畳むと、白衣の胸ポケットにしまい
「さあ、思う存分に殴れ」
 硬直が解けるのは、ある程度彼女への耐性がついていた恋人の方が早かった。ずかずかと歩を詰めてその肩を掴む。
「何言ってるのさ! 佳代さん」
「円満解決の提示だ」
「どこが円満なんだよっ」叫んでそこで急に見えぬ敵に底知れぬ殺意を覚えたように物騒な本音で「佳代さんを殴るような奴が万が一いたら僕がぶっ殺してやる」
「健一君、円満という意味を取り違えていないか?」
「取り違えているのは――」
「ああもういいっ!!」
 突然響いた声に二人のやり取りが中断し二対の視線が向けた先で、声の主は明るい茶色の髪をがしがしと乱暴にかきまわし
「俺は夏樹追わなきゃいけねえんだからお前らに付き合ってる暇はねえんだよ」
「誰もお前に付き合えとは一言も」
「健一っ、貸し一つだからな!」
「聞けよっ! なんの貸しだよっ!」
「すまない。私が成り代わっても果たそう」
「佳代さん! だからなんの話!?」
 茶髪の男は少し決まり悪げにあんたはいいよ、と言い残してきびすを返して、走り方一つにも性格が出るのかどこかやる気がないばたばたとした走りで素早く階段の角に消えていった。
 残された白衣の女性と怒鳴りつかれたその恋人は、しばらく脱力したようにぐったり肩を落としていたが、やがてがしりと彼女の両肩を掴み、何も知らぬ第三者がその様を見ればかすかに照れを含んだ狼狽で顔をそらしてしまうような近さに、いささか目では笑っていない無理な笑顔を近づける。
「佳代さん、一体どういうことなのか僕にはさっぱり分からないから、一から懇切丁寧に説明してほしいんだけど」
「私の大恩人で君の生涯の親友との仲の破綻という危機的状況を間一髪のところで脱したのだ」
「あのね」
 溜りに溜めていた苛立ちに口を開きかけた時、ふと目の前のいつもかけている眼鏡を外して、少し印象が柔らかくなった恋人はふっと軽やかに優しい笑みをのせた。
「良かったな。良い友は人生の宝だ」
 間近でごく直撃として見てしまったためか、肩に置いた指がぎしりとぎこちなく硬直し、だらだらと汗をたらして、八つの子どもでもこうはなるまいと如実な反応をさらして真っ赤になった青年から、それ以上の反論は出てこなかった。


 背後から足音がしていた。率直に言って邪魔だった。走っているうちに目元はもう乾いていたことがわかったので振り向いて一睨みする。
「ついてくんな」
「やだね」
「女追ってろ」
「追ってるだろ」
 女、と指し示すのが凄く癇に障った。前を向き直して歩いて昴が油断して歩を緩めたところで引っ張っていってちょうど良く女子トイレを見つけたので入ってやった。
「てめえっ! それずりいぞ!」
「知るか」
 さすがに入れずにぴしゃりと軽い引き戸を閉めた先で、半開きになっていた一階の窓から中庭へさっさと出た。人間、自棄になるとこれくらいなんでもなくなる。
 馬鹿をまいてやっとすっきりしたので、無意識に人がいない場所へと足を進ませる。大学の中がいい。街には人が多い。校舎の中には人がたくさんでもこの大きな敷地の中、無人のスペースは結構ある。
 校舎裏の隅、農学部の畑へと続く日陰を通って雑草の小道を抜けてそこに出た。抜けると突然に上半分を遮るものがなくなって空が広くなる。
 前には一面に見学の高校生達をわっと驚かせる大きなとうきび畑に、ビニールで曇って中身は見えない温室、手前にある綺麗に段がついた畑には、久々に見た気がする土の色に淡い緑の色を追加する苗がひょろりと伸びていた。
 それらに平等に燦々と太陽が降りそそいで、それとは別の眩い輝きが辺りを全て満たして、灰色の校舎と対比させればまさに別世界だ。
 これだけ日当たりの良い場所なので、畑以外の場所には雑草達が生き生きと葉を伸ばし、脇には引っこ抜かれた雑草が積み上げられている小山もあって、そこからむっとするような草の匂いが立ち込めている。
 ほっと息をついて、視界に入るものを全部納めてしまったら後は必然として、嘔吐感のように胃の奥から涙の衝動が盛り返してきた。
 母親に捨てられた子どものように、別世界を目の前にしながら立ちいれずに、灰色の校舎との接点を保つようにコンクリートの壁を背に躊躇なく座り込んだ。少しくらい土がついて困るような服は着ていない。
 馬鹿なことを言った。
 馬鹿なことをした。
 分かっていた。目の前で泣くあの子もましてや俺も、あの人がいれば先輩の目にはこれっぽっちも映らない。人が人を想う気持ちにいつでも平等はない。
 争う気がなくなって重力にも負けたように、地面に逆さになって寝転がった。頭が重たげにどさっと温かい地面に触れて雑草が首筋をくすぐる。
 注がれる光が無防備に横たわった体に染み渡るようで。目を少し閉じると記憶の光が鮮明になる。

 とうきび 太陽 昴の馬鹿 鈴木先生 泣いていた女の子 健一先輩 彼女 北沢さん

 全部が廻って涙が滲んだけど、きりよく気分よくわっと一息に泣きだしもできずにあっつい太陽を浴びていると、ざっと乱暴に土を蹴る音と共に悪夢のように校舎の影から昴が現れた。涙がひいて上半身を起こす。
「てめえ、ついに痴漢になりさがったか」
「誰が引っかかるか。あれだよ、坊主が厠にこもってても三枚の札が代わりに返事をしなくなったらばれる」
 得意げに話す昴を前にパンパンとジーンズについた土をはらって鷹揚に立ち上がり
 脛に蹴りを入れた。
「がっ」
 思わずしゃがみ込んで脛を抱える昴の前から駆け出す。痛みで少し時間を稼げたとしても、悔しいが足の速さも長さも違うので今からでは走って視界の外に逃げ出すのは難しいと判断して、目の前のとうきび畑に飛び込んだ。
 例え姿は隠せても連なる幹を押しのけて進んでいるので、上から見れば一目瞭然だろうがやたら俺に挑戦するように傍に寄れば威圧的にそびえるとうきび――トウモロコシの丈は昴の背も越えていて、少し入り込んでしまえばこれは間近では分からない。
 すぐにとうきびに囲まれて外界が遮断されて、向こう側から声だけが聞こえる。
「お前みたいなどちびがそんなとこもぐったら二度と発見されねえぞ」
「誰がどちびだっ!」
「お前だよ。――そこだな」
 思わずぐっと詰まって慌てて横に逃げる。声で確かにちょっと場所は限定されたかもしれないが充分に逃げられる算段はある。
 別の意味では悔しいがとうきびの根元はきちんと一本の苗から出て細くまとまっていて、俺の頭の上で邪魔になる葉っぱを思う存分横に広げているので、耕された畑の段差を確認してとうきびが生えている盛り上がっている方ではない低い方に足をつけ、ただ密集しているようでいてきちんと並んで立っているとうきびの筋に沿っていけば、ほとんど邪魔されることなく楽々と進められる。そびえたつ立派なとうきび達は、さすがにうちの大学が誇る農学部のご自慢の畑なだけはある。
 ひたすらにただただ金と緑の海の中を進んでいるうちに、さすがにどれだけ広くても畑の終わりがきた。後ろで昴が進んでいるはずの音が聞こえないかと少し耳をすませて、金色のとうきびの海の中から飛び出た瞬間、さっと影が落ちた。
 昴が。
 珍しくすかした髪を乱して数本ほつらせている昴が仁王立ちになっていた。
「百年早い」
 物も言わずにきびすを返した瞬間、襟首を猫のように掴まれて停止した。そのまま後ろ向きにずるずると引きずられて投げ出された靴の踵が地面をごりごりこすった。
 落ち着いた気分で引きずられながらゆっくり辺りを見やる。
 誰もいないけれど、声を出せばいいかもしれない。人目があるところで女の立場は強い。悲鳴一つと痴漢との断定で社会的に抹殺できる。だけど昴はいくら女ったらしでも馬鹿でもデリカシーがなくても最低なところがあっても痴漢ではないので弱者の暴力を振るうのも躊躇われた。
 だから隅に一本ひょろりと立ったコケモモの木の陰まで引きずられていき、やっと手を離されたところで足を踏んでやった。身長の問題があるのでそう重くはないがじんわりととその一足に全体重をかければさすがに痛い。
「お、まえなあっ……」
 苦々しく言いながら昴は顔をしかめ
「なんにも非がねえのに暴力振るわせれば俺だって怒るぞ」
「追ってくんなって言ったろ」
 足を話しながら言うと昴は無意味に偉そうに腕を組み
「お前のキャラじゃねえんだよ。一人でぐずぐず泣いているなんてよ」
 ふっとよぎる無責任な言葉達。似合わない柄じゃないだろ変だよ。からかいと軽い言葉の中にある否定。小さいから、こんなのだから、愛玩扱いされることばかりで。なのにこんな口調だからギャップにあがる無責任なそれがいつも疎ましくて。
 そして今は猛烈に腹が立った。
「なにお前の勝手なキャラ付けで俺がいつも馬鹿みたいにへらへらしてなきゃいけないんだよっ!」
 ヒステリックに尖った苛立ちに気付いたのか昴はむっとしたように
「ちげえよ、被害妄想で勝手に曲解すんなよ。俺が言いたいのは一人で泣くなってことだよ」
「お前が曲解させてんだよ」
 この上なく自分勝手な言い草だったが、次に来たものはその比ではなかった。
「だいたいお前、趣味悪すぎ。健一のどこがいいんだよ、あんなの」
「お前より百万倍はマシだっ!!」
 さっき蹴ったところを狙ってくりだした。炸裂して身体を折り曲げて呻く昴から今度は逃げなかった。逃げるのも馬鹿らしくて、折り曲げられたのでちょうど良い高さにきた襟首を掴んで引き寄せる。
「お前と健一先輩なんか違いすぎて比べられるかっ!」
 罪がなさそうにきょとんとしてこっちを見る昴。こんな馬鹿にあんなにも好きな人との間も邪魔されたのかと思うと、無性に悔しく悔しくて涙が出た。
「好きだったんだっ! 凄い好きだった。本気だったんだっ! 全部お前のせいだろっお前があんなこと言い出したんだろっ! お前のせいじゃないかっ、お前があんなこと言わなきゃ」
 最後の矜持で俺の名前をあげてくれれば、とは言わなかった。
「た、たしかにあいつらくっつけたけどさ、でも俺が入らなくてもいつかくっついてたよ、あいつら波長が一緒だ」
「知ってたよっ!!」
 廊下で並んで歩いていた二人の姿がちらつく。その歩く早さはどちらがあわせているのか全く分からないほどにぴったりと自然に重なっていて、どちらも気にもしてないようで。たったそれだけで、全部が分かった。
「知ってたよ……」
 先ほどまでぎっと憎く昴の襟元をつかんでいた手から力が抜けていく。昴を責めたてるのもお門違いだということを知ってた。苛立ちは半分くらいやっぱり昴のせいだけど昴のせいだけじゃない。どう転んでも結局こうなることを知ってた。
 好きだと結局いえなかった自分が嫌だった。知ってて知らないふりをする自分が嫌だった。あの子みたいにぶつかれない自分が嫌だった。好きになってもらえない――自分が嫌だった。
「……お前なんか大嫌いだ」
 恨みがましく呟くと昴は「はあ?」と心外そうに声をかけて
「なんで俺が嫌われるんだよ。恨むなら北沢か健一だろ」
「お前嫌い。恨むのも絶対正当性ある」
「なんだよその言い草。人がせっかくここまでおっかけてきてやったのに」
「俺は追ってくるなって言ったんだよ」
 こいつといると同じ言語を話している気がしない。あまりに馬鹿らしくて少し涙が乾くと、昴はその場にどかっと腰掛けて自分の膝を身体に寄せ
「なあ、お前さ、ほんとのとこ健一のどこがいいよ」
「全部」
「趣味わりー。あんな軟弱野郎」
「だからお前に言われたくねえ」
 ちえ、と昴は舌を鳴らした。それからしばらく沈黙して、口元に手をあてて横を向きざま、はーとわざらしい長いため息を吐き出してから、向こうをむいたままでのまたしばしの沈黙の後に、おもむろにこちらに顔を戻すと
「飲みに行こうぜ、今日」
「やだよ。俺は一人で静かに過ごす」
「それで一人で写真焼いたりすんのかよ。かー、くれえ」
「うるさい。お前みたいな人の気持ちがこれっぽちも分からない奴とは一分一秒もいたくない」
「分かるって」
 もはや自分の中でだけの事実ではなくごく客観的な事実においては、本当言っていることの方が珍しい有様の昴は平然と続けた。
「俺もふられたくちだからな」
「ざまみろ」
 反射的に言ってからふと気付いた。
「ふられたのか?」
「あーあ。きっぱりな。こんな強烈に振られる男も珍しいぞ」
「それ、最近の話かよ?」
「すぐ目の前の最近だ」
 不貞腐れたような口調だったが、少しだけ肩が下がっていて本当にそのことで気落ちしていると分かる。結構長い付き合いだが、そんな昴を見るのは初めてだった。連帯感という奴で少しだけ気持ちが和らいだ。
 すると昴は急にこっちを向き、
「お前、いつも用なんかないくせにあそこいらうろついてたしさ、なんだかんだ言いながら俺が誘うとゼミ室にいつも入ってきたしよ、そういう態度ってあれだ。普通に考えたらそうなるだろ、紛らわしいんだよ――」
 ぶつぶつと明らかにぼやきの口調ではあったけれど、全然的を絞ってないので何が言いたいのか分からない。 
 確かに昴にゼミ室に誘われると、断らずに入るようになった。ふっと考える。俺がゼミ室に入っていたのは多分あの三人に、いや黒髪のあの子を見るためなんだろう、と思った。まだどこに位置づけていいか分からないからはっきりさせられないけれど、俺の中で欠けたどこかがあの子の存在だった。
 泣きながら去っていったあの子を思い出す。あの子はどこで泣いたんだろうか。考え込んで気付くと昴がじっと俺を見ていた。いつの間にかその口からだらだらと垂れ流していたぼやきは止んでいた。
「なんだよ」
 と聞くとそばめた眼で俺を見てからぷいっと横を向く。
「しらねえ」
 その態度になんだと思って先ほどの振られた云々を思いだした。よほどの相手に振られたんだろうか。昴は軽薄な馬鹿だが馬鹿は馬鹿なりにもてるようだし、いつでもお気楽そうなこいつがこんなにショックを受ける相手か。
 全然想像がつかないと思いかけた瞬間俺はぴんときて、きたがちょっとやばい方向性のひらめきだったのでおそるおそると
「まさか相手、北沢さんとか言うなよ……?」
 すると昴は拗ねることも忘れたようにこっちを向いて、やがてつくづく呆れ果てたように
「ちげえよ、ばーか」
 それから疲れたように空を仰ぎ、ため息を吐き出した。そうなると相手は見当がつかないが本当に完膚なきにまで振られたようだ。
 そんな昴を見やった。健一先輩のことで死ぬほど泣いた。布団をかぶって電気をつけないベッドの上で泣きじゃくった。惨めで悲しくて苦しくて仕方なかった。そんな気持ちを、こいつも知ってるのか。
 女ったらしで馬鹿で無神経でデリカシーのない最低の塊のようなこいつでもへこむのか。一人の人間が周囲の人間に抱く気持ちは決して平等ではなくとも、振られて選び損ねられたこちらの痛みだけは誰でも平等なのかもしれない。俺と昴の痛みは同じなのかもしれない。
 まだ痛いのはまだ好きだからだ。昴もまだ好きだから痛いんだろう。こういう想いに関しては、冷めるのも熱するのも全てが一瞬だとも言われるけど、一晩寝て目が覚めたら健一先輩を好きじゃなくなっているなんて俺には思えない。それにそんなの望まない。
 怪我だって一緒だ。スイッチを横に倒すみたいに、いきなり負傷から完治にぱぱっと入れ替わるなんてありえない。きっと多分、頑張って、努力して、ゆっくりゆっくり薄めていくしかないと思う。厄介なこの気持ちは。
 自分の胃の辺りをなんとなく撫でて、追うなと言ったのに追われて色々と腹が立つことばかり言われたが、そのお構い無しの傍若無人さでこっちも遠慮なく、ずっと言葉にできなかった先輩を好きだと叫べて全部お前が元凶だと半分言いがかりだけれどしこりになっていた自分勝手な気持ちを罪悪感なく吐き出せて自分がずっとこうなることを知っていた底の底の理解も引きずりあげて、滅茶苦茶になって確かに少しはすっきりしたのかもしれない。
 胃の辺りを撫でた右手を見つめてゆっくりグーを作った。指をたたむと我ながら丸っこい、子どもどころか赤ちゃんの手のようで虚しいそれを、同じように地面に直接座っているとやっぱり高い位置にある、空を見上げたままの横っ面をかるくそれでこづいた。昴がこっちを見下ろす。その後ろに高い高いとうきび畑が見えた。
「飲みくらいなら、つきあってやるよ。」
 仕方ないから、と付け足すと、昴は子どものように地面に座ったままこちらを向いて、どことなく不思議な表情で、指を開げて差し出した。
 そこだけはちょっと健一先輩に似てなくもない骨ばった手が作ったパーが、俺のグーをとすっと受け止めて一拍後に包みこんで大きなグーになった。



<とうきび畑でジャンケンを>完



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